北オセチア、モズドクの陸軍病院が自爆攻撃と思われる爆破攻撃を受けた。死亡者数については情報が錯綜しているが、死傷者数は300に近いと思われる。2003年の特徴は、チェチェン戦争のチェチェン領外への拡大である。ロシア合同軍は、既にチェチェン国内並みの「掃討作戦」をチェチェンの西隣のイングーシ領域で繰り返し行っており、チェチェン軍も春の拡大司令官会議で新しい戦区として「イングーシ戦区」を新設し、ロシア軍にイングーシ領内でも対抗していく意思を露わにした。イングーシ在住のチェチェン難民も更にロシア奥地に移住するか、外国につてを求めるか、あるいは危険覚悟でチェチェン領内に戻るかの選択を迫られようとしている。
オセチアは、チェチェンの北西部で直接チェチェンと隣接するほか、イングーシの更に西側に位置する。基幹民族であるオセット人は、伝統的にテレク川左岸に居住し、ワイナハの人々(チェチェン人・イングーシ人をあわせた呼び名)は右岸を居住地としてきた。オセット人は、ロシア帝国との接触が古く、ロシア正教を受容し、長年ロシアと結ぶ事で生き延びてきた。ロシア帝国は、18-19世紀東西に伸びる北コーカサスのイスラム教徒諸民族の居住地をほぼ中央にあるオセチアを楔として東西に分断し、各個撃破して臣従を強いてきた。そして、北オセチアから大コーカサス山脈の南側の南オセチアに抜ける、「コーカサス軍用道路」を建設して、グルジア、アルメニアなど外コーカサス地域侵略の足がかりとした。
この様な歴史的経緯に加えて、スターリンのソビエト帝国は、1944年にチェチェン・イングーシ・ソビエト社会主義自治共和国を取りつぶした際、町の中央部をテレク川が流れ、同共和国と西隣のオセチアの双方にまたがっていたオルジョニキーゼ(現在のウラジカフカーズ)の町を周辺部の村々と共にオセチア領とした。そして1950年代後半、チェチェン・イングーシ自治共和国が復権した際、これらオセチアに割譲された地域、また東隣のダゲスタンに割譲されたハサブユルト付近などは原状復帰がならなかった。さらに、テレク川以北のチェチェン人が殆ど居住せず、ロシア系のコサックやチュルク系のノガイ人の居住する地域が、ロシア連邦のスタブロポリ州から切り離されてチェチェン・イングーシ自治共和国の一部とされた。筆者は第2次大戦以前の同共和国地図を入手したいと思っているのだが、未だ入手できずにいる。とにかくソビエト帝国はスターリンの死後も、わざわざ「民族共和国」に色合いの異なる人種・領域を混ぜ込んで将来の紛争の種を仕掛ける陰険な術策を弄したのである。
この様な経緯から、チェチェン紛争とは別にイングーシ・北オセチアの間には、80年代末から90年代にかけて、国境紛争が続いてきた。さらにチェチェン戦争が始まると、ウラジカフカースとモズドクは、ロシア軍のチェチェン侵略最大の基地として利用されることになった。
モズドクにあるのは、チェチェンでの戦傷者を治療する陸軍病院があるだけではない。チェチェン全土に爆弾の雨を降らせている空軍機の出撃基地は、グローズヌイの南東部にあるハンカラ基地から出撃しているのではなく、モズドクのロシア空軍基地から出撃しているのである。モズドクの空軍基地付近でパイロットたちを運ぶ小型バスが、若い女性の自爆によって大破させられた事件は記憶に新しい。また、モズドクはFSB、GRUなどロシア側の特務機関の基地があり、チェチェンで誘拐・不法連行された人々の多くは、ここへ運ばれて消される。こうして消された人々の消息を探ろうとチェチェンからやってくる人々の一部が、この地で復讐を決意しても仕方のない土壌がこの地には充ち満ちているのである。
オセチア人は確かに宗教的にはキリスト教徒であるが、ワイナハの人々と多くの風俗習慣文化を歴史的に共有してきた。チェチェンとロシアが好むと好まざるとに拘わらず、共存して行かなくては、明るい未来はあり得ないのと同じく、オセット人とワイナハの人々も建設的な未来を築かなくてはならないのは言うまでもない。ただ、我々外部の人間も、上述のような歴史的経緯と、現状があることは、知っておくべきだろう。
渡辺千明 2003.08.02.
一部2003.08.20.改稿