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ルーム・セルジューク

 景色も変わらずコンヤまでたっぷり時間が有り、ガイドのベルマさんがトルコの歴史について語り始めた。それはトルコ人がどこから来たかを語るための歴史であった。
 トルコはエジプト、ギリシャと並ぶ古い歴史を有する国である。紀元前五千年前の青銅器文明の遺跡も出土している。
 そして、トロイの遺跡から紀元前三〇〇〇年〜二五〇〇前にトロイやチャナッカレに都市が形成され、中央アナトリアには先住民族のハッティ人が小国家を形成していた。トロイ遺跡の第一市、第二市の時代である。
 そしてインドから西ヨーロッパまで広範囲な民族移動によってカフカス族(コーカサス地方にいた民族、ネスィ族、パラ族、ルウィアン族)がアナトリアに移住し、ハッティ国家を占領し古代ヒッタイト帝国(紀元前一六六〇〜紀元前一一九〇年)が建国された。
 最盛期のヒッタイト帝国は当時エジプトと並んで世界の二大強国であった。ヒッタイトは人類史上始めて鉄を使った民族として有名である。このヒッタイトも紀元前一一九〇年謎の滅亡を遂げた。
 ヒッタイトが滅亡して紀元前一二〇〇年頃からアナトリアに移住してきたのがフリュギア人(現在のブルガリアに住んでいた民族)ウラルトゥ人(アルメニア人)であった。
 フリュギア人は紀元前一一〇〇年頃、中央アナトリアにフリュギア王国(紀元前一二〇〇〜六九五年頃)を興した。(トロイ第七市の時代でトロイ戦争があった。)
東部に移住してきたウラルトゥ人はウラルトゥ王国(紀元前九〇〇〜五九〇年頃)を築いた。西部アナトリアには先住民族のリディア人がリディア王国(紀元前六七〇〜五五〇年頃)を築いた。リディア王国は世界最古の貨幣を鋳造した国である。
 紀元前五四六年、ペルシャ人のアケメネス朝(紀元前五四六〜三三〇年)がアナトリアに侵攻しリディア王国を滅ぼしてアナトリア全土を征服した。
紀元前三三四年、ギリシャの北方にあったマケドニアのアレクサンドロス(通称アレクサンダー大王、前三五六〜前三二三年)がマケドニアとギリシャの兵四万を率いて東方遠征に出発した。
 ダーダネル海峡を渡りペルシャに攻め入った。紀元前三三一年、アルベラの戦いに勝利しアケメネス朝は滅んだ。アレクサンドロスはその後も東方遠征を続け、紀元前三二六年にはインダス川を渡りインドに攻め入った。
 凱旋帰国したアレクサンドロスはペルシャ帝国の後継者としてバビロンに留まったが紀元前三二三年に急死した。
 アレクサンドロスの死後、アナトリアの大部分はベルガモン王国の支配下となり、紀元前一三三年、ベルガモン最後の王の遺言によりベルガモン王国はローマに譲り渡されアナトリアはローマの支配下となった。
 西暦三九五年、ローマ帝国は東西に分裂し、アナトリアは東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の支配下に置かれた。
 一〇七五年、ビザンチン帝国はセルジューク・トルコに敗れ、アナトリアはセルジューク・トルコの支配下となった。
 セルジューク・トルコがアナトリアを支配下に治めて初めてトルコ人が中央アジアからアナトリア全土に進出した。
 トルコの長い歴史を振り返ってもセルジューク・トルコの進出以前はアナトリアにトルコ人はいなかった。
 トルコ人は古くはトルコから遠く離れたバイカル湖の南方で遊牧民として暮らしていた。史記の匈奴列伝に記されているていれい丁零がトルコ系の民族(テュルク)ではないかと云われている。丁零は五世紀末、高車丁零として史記に登場するが歴史に名を留める大国ではなかった。
 トルコ系の民族(テュルク)は時代が下るにつれモンゴルから中央アジアへと西方に移住し混血を重ねて現在のトルコ人となった。(トルキスタンとはトルコ人の住む土地の意で、カザフスタン・キルギス・タジキスタン・ウズベキスタン・トルクメニスタン各共和国と現在中国領の新疆ウイグル自治区の広範な地域を指す。)
 トルコ人がアナトリアに移住したのはセルジューク・トルコの時代からである。アナトリアにおけるトルコ人の歴史はセルジューク・トルコから始まるとも考えられる。
 それ故か、コンヤはセルジューク・トルコが首都とした都で有りトルコ人の郷愁を誘う古都でもある。
 セルジューク・トルコを遡るとモンゴル高原に割拠したウイグル族(ういぐる回鶻)に行き当たる。ウイグル族はトルコ系の種族(テュルク)の一派であった。
 突蕨(とつけつ)の滅亡後、漢北(黄河の北)を支配しウイグル帝国(七四〇〜八四〇年)を樹立した。中国の史書ではおぐず鉄勒と記されている。
 突蕨とは六世紀から七世紀頃、中央アジアに存在した遊牧民でトルコ系の鉄勒を支配下に治め最盛期には東は中国、西はカスピ海に至る広大な領土を持つ国であった。(突蕨はトゥルクとも呼ばれテュルクからの音訳でトルコ系種族と云われている。)
 六二七年、突蕨は中国の唐に攻め入り長安の近く渭水にまで迫った。二年後、鉄勒が叛き唐軍と鉄勒の挟撃に遭い衰退していった。
 七四四年、トルコ系の種族のウイグル族が突蕨を滅ぼして漢北にウイグル帝国を築いた。唐はウイグル初代可汗(カガン又はハーン)、キョル・ビルゲに壊仁可汗という称号を与えた。
 唐の玄宗皇帝の時代、あんろくざん安禄山(母はトルコ人)とししめい史思明が叛いた安史の乱(七五六〜七六三年)の時、唐はウイグルに援軍を求め長安を奪回した。
 八四〇年、ウイグルで大規模な内乱が発生した。ウイグル族は九姓鉄勒と称し九つの部族の連合体であった。内乱の最中、キルギス(トルコ系部族)の大軍に攻められ帝国は崩壊した。
 一方、アラブで興ったイスラム教が台頭しイスラム帝国を築いて布教の輪を広げていた。イスラム教は六一二年頃、(推古天皇、聖徳太子の時代)創始者のムハマンドが四十歳の時、メッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想に耽っていると天使のガブリエル(キリスト教の天使)が現れ、そなたは唯一神アッラー(イスラム教では天地万物の創造主)の使徒であると告げた。
 その後も神の使徒ムハマンドに次々と啓示が下され、ムハマンドは預言者として目覚めメッカでイスラムの教えを説き始めた。
 ムハマンド(マホメット)、五七〇頃〜六三二年、全名はムハマンド・イブン・アブドゥッラーフ・イブン・アブドゥルムッタリブと云い、イスラム教ではアダム、ノア、アブラハム、モーゼ、イエスの次に現れた最後の預言者であると説いている。ムハマンドはメッカ(サウジアラビア)で生まれ、メディナ(サウジアラビア)で没した。それ故メッカとメディナそれにエルサレムがイスラム教の三大聖地である。)
 しかし、メッカでは迫害を受け、六二二年ムハマンドは母の故郷、メディナに移住(イスラムでは聖遷)した。この年がイスラム暦(ヒジュラ暦)の始まりの年となった。
 そして信徒(ムスリム・イスラム教徒)が増えムハマンドはイスラム共同体を組織した。イスラム共同体は急速に勢力を拡大し六三一年にはアラビア半島を統一しイスラム国家を築いた。
 ムハマンドの死後、イスラム共同体の指導者であり、かつイスラム国家の指導者で有る、最高権威者としてアブー・バクルが後継者に選ばれた。アブー・バクルは「神の使徒の代理人」即ち、カリフと称した。
 六六一年第四代、カリフとなったムアーウイヤはカリフの地位を世襲と定めウマイヤ朝(六六一〜七五〇年)を興した。
 イスラム国家のウマイヤ朝は東ローマ帝国と戦い、カルタゴを奪い、イベリア半島の西ゴート王国(フランス南部からイベリア半島を支配したゲルマン系の王国)を滅ぼし、北アフリカのほぼ全域からイベリア半島まで勢力を拡大したがフランク国(現在のフランス、イタリア北部、ドイツ西部、オランダ、ベルギーを領土としたゲルマン系の王国)に破れ、アッパース朝革命によって七五〇年に滅亡した。
 アッパース朝(七五〇〜一二五八年)は建国の翌年、中央アジアの小国、石国(タシュケント)が唐に攻められアッパース朝に助けを求めてきた。
 唐の玄宗皇帝の時代、シルクロードの要衝、小勃律国(現在のキルギス)は唐に服属していたがパミール高原に進出した吐蕃(チベット)は小勃律国を服従させシルクロードの権益を奪った。
 小勃律国を失い唐の西域経営に重大な支障を来たし西域との交易も遮断された。唐は西域との交易を再開すべく高仙芝に一万の兵を与え唐に叛いた小勃律国を攻めさせた。
 高仙芝は正面から攻めても吐蕃が控えており一万の兵では勝ち目が無いと考え、大きく迂回し千数百キロも行軍してパミール高原を越えて小勃律国に攻め入った。小勃律国は思っても見ない方角から攻められ国王は捕虜となり長安に送られた。
 高仙芝はこの功により安西節度使(節度使とは玄宗の時代に辺境の防衛を目的に設置された傭兵軍団の司令官で、その地方の軍事と民政を司った。)に任じられ西域経営を一手に委ねられた。
 七五〇年、高仙芝は亀茲(クチャ)から出撃し、疏勒(カシュガル)からパミール高原を越えて石国(タシュケント)に攻め入った。そして財宝を奪い、王を捕虜として長安に送った。その為、石国の遺臣は唐に服属せずイスラム帝国のアッパース朝に救援を求めた。
 高仙芝はアッパース軍を迎撃するためにフェルガーナ(ウズベキスタン)に向かった。戦いは現在のカザフスタン、ウズベキスタン、キルギスの三国の境にあるタラス河畔で激突した。
 しかし、トルコ系のカルルク軍(テュルク系の部族)がアッパースに寝返り唐軍は挟撃されて大敗した。勝利したアッパースは多数の捕虜を得、その捕虜の中に製紙技術を持つ者がいた。こうして中国の製紙技術が西洋に伝わり、イスラム教も中央アジアに伝わった。
 アッパース朝の最盛期には西はモロッコから東は中央アジアにまで版図を広げ、バグダッドに中央集権的な国家を建設した。
 そしてアッパース朝はカリフ(神の使徒の代理人)の地位を世襲し、より権威を高めるために「イマーム」(神の代理人)という称号を採用した。
 繁栄を極めたアッパース朝も第五代カリフのハールーン・アッ・ラッシードの死後、世襲制を巡る後継者争いが起こった。
 同じ頃、軍部の力が強くなり帝國内各地に駐留していた軍隊が各民族の自立の動きを活発化させ、アッパース朝は急速に帝國の支配力を失い分裂状態に陥っていった。
 そして、地方の総督たちが中央政府に叛き、アッパース朝の名目的支配を認めて実質上の王朝を創始した。
 イラン系の将軍ターヒルはイラン東部で自立しターヒル朝(八二一〜八七三年)を建国し、同じくイラン系の将軍サッファールはイランで自立しサッファール朝(八六七〜九〇三年)を建国し、ターヒル朝を滅ぼした。
 ターヒル朝を滅ぼしたサッファール朝もサーマーン朝(八七五〜九九九年)に滅ぼされた。サーマーン朝の最盛期にはイラン東部から中央アジアを領有していた。
 中央アジアでは八四〇年にウイグル帝國(トルコ系の民族)が滅び部族は四散した。王族の一人アティ氏一派が東トルキスタン(現在中国領の新疆ウイグル自治区、トルキスタンとはトルコ人の居住地)方面に西走し、西ウイグル国を建国した。
 十世紀に入ると西ウイグル国にもイスラム化の波が押し寄せてきた。西ウイグル国の王族の一人、ベラサグン候の太子サトゥク・ブグラハンがイスラムに入信し家督を継ぐと家臣に入信を強要した。
 そして、九四〇年、ブグラハンは当時仏教国であった西ウイグル国から離脱して自立しカラハン国(カラ汗国 九四〇〜一二一二年)を興した。
 カラハン国は現在のキルギス共和国のトクマクを都とし国王以下、遊牧民に至るまでイスラム教に集団改宗した。トルコ人によるイスラム国家が誕生した。
 そして、カラハン国はジハード(聖戦)を掲げ、一族の西ウイグル国を併呑してイスラム化し、仏教国の于?(ホータン)亀茲(クチャ)征服した。
 西にも勢力を拡大し、九九九年カラハン国はサーマーン朝(イラン系)から自立して現在のアフガニスタンに建国したガズニ朝(九六二〜一一八六年 トルコ系)と手を組み、サーマーン朝を南北から挟撃して滅亡させウズベキスタンを領土に加えた。
 こうしてカラハン国の領土は、東は現在中国領の新疆ウイグル自治区の西部から、西はウズベキスタンに至る広大な領域を支配した。
 一〇四一年、カラハン国に内紛が起こり、パミール高原を境に東カラハン国と西カラハン国に分裂した。
 一一二五年、、女真族(ジュルチ、満州族)の金(一一一五〜一二三四年)に滅ぼされた遼(九一六〜一一二五年 モンゴル系のきったん契丹族)の軍団がカラハン国発祥の地中央アジアのキルギスに現れた。
 彼らは遼の王族の一人であったやりつだいせき耶律大石に率いられて西進し、中央アジアの東カラハン国に達した。そして、東カラハン国は滅ぼされ、耶律大石は東カラハン国の地に西遼(カラ・キタイ)を建国した。
 一〇八九年、西カラハン国もセルジューク・トルコに打ち破られ服属した。セルジューク・トルコはトルコ系の種族(テュルク)で現在のカザフスタンから南の砂漠地帯に定住する遊牧民であった。彼らはイスラムに改宗しトゥグリル・ベグに率いられて南下し、現在のウズベキスタン、タジキスタンに入った。
 この地はサーマーン朝の領土であった。この頃サーマーン朝では騎射に優れたテュルク系の遊牧民をマムルークとして大々的に採用していた。
 トルコ系の遊牧民(テュルク)は幼少の頃から乗馬に慣れ親しみ騎射に優れていたので幼少の頃に奴隷として買い入れ訓練して兵士とした。元はこの奴隷身分の兵士の事をマムルークと呼んでいたが、次第にリーダーを中心とする一団を傭兵として雇い入れマムルークと呼んだ。
 トルコ系の遊牧民(テュルク)を傭兵として盛んに採用したのはアッパース朝の頃から始まった。サーマーン朝はテュルク系の遊牧民と境を接していたので大々的にマムルークを採用した。トゥグリル・ベグの集団もサーマーン朝にマムルークとして傭兵されたのであろう。
 サーマーン朝がカラハン国に滅ぼされトゥグリル・ベグの集団はカラハン国に仕えたが次第にカラハン国と対立するようになった。
 一〇三五年、トゥグリル・ベグは再び集団を率いてイラン北東部のニシャプール(トルコ石の産地)に入り、一〇三八年、その地の支配者に迎えられた。この年がセルジューク・トルコ建国の年とされている。
 支配者となったトゥグリル・ベグはトゥルクマーン(遊牧生活を守りながらイスラムに改宗したトルコ系の遊牧民(テュルク))を呼び集め戦力を増強した。
 そして、一〇四〇年、サーマーン朝から独立したガズニ朝と戦い現在のトルクメニスタンを支配下に治めた。
 一〇四二年には現在のウズベキスタン西部(ホラズム)を占領し、一〇五〇年にはイラン高原に転戦しエスファハーン(テヘランの南約三四〇キロに位置するイランで三番目に大きい都市)を占領しイランの大部分を掌中にした。
 一〇五五年、トゥグリル・ベグはアッパース朝からイラクの統治権を認められていたブワイフ朝を倒しバグダッドに入城した。
 そして、名目上の王朝として存続していたアッパース朝のカリフからスルタン(君主)の称号が授与され、イスラム世界において初めて公式の称号となった。
 一〇六三年、トゥグリル・ベグが没した。彼には家督を継ぐ子供がいなかったので甥のアルプ・アルスラーンがスルタン位を継承した。
 一〇六四年、アルプ・アルスラーンは積極的に外征を行い、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の領土であったアルメニアに侵攻し、更にアナトリアに軍を進めた。
 ビザンツ帝国の領土がさんしょく蚕食され一〇七一年、ビザンツ帝国の皇帝ロマノフ四世は自ら六万の軍勢を率いて親征した。
 ロマノフ四世ディオゲネスは元ビザンツ帝国の将軍であった。彼が皇帝になったのはコンスタンティノ十世ドゥーカスの死去に伴い皇后のエウドキア・マクレンボリティサが女帝として即位した。そして、翌年ロマノフと結婚し彼を皇帝として即位させた。
 国民や貴族はセルジューク・トルコの侵攻に悩まされ、ロマノフ四世に強い軍事力を望んでいた。ロマノフ四世は北方から侵攻して来たロシア人、ノルマン人と和睦し彼らを傭兵として雇い入れ軍備を増強させた。そして自ら軍を率いて親征した。
 戦場はトルコの東南ヴァン湖の北岸から五十キロ北方にある城塞都市マラーズギルトであった。迎え撃つアルプ・アルスラーン率いるセルジューク・トルコ軍は一万五千、絶対的に兵数の劣るセルジューク・トルコ軍に不利な戦いであった。
 しかし、セルジューク・トルコ軍の士気は高く、一方のビザンツ帝國軍は圧倒的な兵力を擁していたが所詮、傭兵軍団であった。戦いはビザンツ帝國軍が大敗したばかりか皇帝のロマノフ四世が捕らえれ捕虜となった。
 この戦いを突破口にセルジューク・トルコ軍はアナトリアの奥深くまで侵攻しビザンツ帝國の首都コンスタンティノーブル近くまで達した。こうしてセルジューク・トルコの領土となったアナトリアに大挙してトルコ人が進出した。
 版図を大きく広げたセルジューク・トルコ朝は第三代スルタン、マリク・シャーの時、最盛期を迎え、彼の死後セルジューク・トルコは分裂しシリア・セルジューク、イラク・セルジューク、キルマン・セルジュク、ルーム・セルジュークの四ヶ国に分裂した。
 その中でアナトリアを統治したのがルーム・セルジューク(一〇七四〜一三〇八年)である。ルーム・セルジュークの始祖はスライマン・ブン・クトルムシュである。
 スライマン・ブン・クトルムシュはトゥグリル・ベグの従兄弟に当たり、マラーズギルトの戦いの後、アナトリアの奥深く入り、コンスタンティノーブルに程近いニケーア(イズニク)を占領して,一〇七七年、ルーム・セルジューク朝の独立を宣言しニケーアを首都とした。
 ニケーアは紀元前二世紀頃、ローマ帝国の領土となった街である。今もローマ時代の遺跡が数多く残っている街でもある。こうして、アナトリア全土がトルコ人の領地となった。
 一〇九六年、第一次十字軍がアナトリアに押し寄せてきた。事の発端はセルジューク朝にアナトリアを占領されたビザンツ帝国(東ローマ帝国)のアレクシオス一世が大義名分として異教徒のイスラム教国に奪われた聖地エルサレムの奪回をローマ教皇ウルバヌス二世に訴えた。
 要請を受けたローマ教皇ウルバヌス二世はカトリック教会の覇権を東方正教会圏まで広げる好機と捉え、フランス東部のクレルモンで公会議を開き、聖地エルサレムを回復するためにイスラム教徒に対し聖戦を起こす事を提唱した。
 教皇に賛同したフランス騎士団が中心となり、それに南伊のノルマン人が呼応して一〇九六年、第一次十字軍、クルセードが組織された。
 十字軍は教皇ウルバヌス二世の名演説が功を奏し王侯、貴族、修道士、農民までもが兵士として参加し、騎兵五千、歩兵一万五千の大軍団に膨れ上がった。
 コンスタンティノープルで東ローマ帝国(ビザンチン帝国)軍と合流し、アナトリアに怒涛の様に押し寄せた。
 強襲されたルーム・セルジュークは敗退を繰り返し、十字軍の兵士は行く先々で戦利品として金品を奪い、略奪、暴行、殺戮の限りを尽くした。
 こうしてアナトリア西方の領土を奪われたルーム・セルジューク朝はニケーア(イズニック)を捨て、内陸のコンヤに遷都した。
 その後も十字軍は快進撃を続け、シリア・セルジュークも敗退し一〇九九年、十字軍はイスラム国家のファーティマ朝が支配する聖地エルサレムを奪回した。この時、エルサレムにおいて老若男女七万人のムスリム(イスラム教徒)を虐殺したと云われている。
 そして十字軍の騎士団は制圧した地を己が領土として領有し、長期に亘り聖地を防衛するとの大義名分を掲げて、エルサレム王国、エデッサ伯国、アンティオキア公国を樹立した。
 この十字軍の遠征に従軍した貴族や兵士それに農民や修道士も異文化に触れ、格段に進歩したビザンチン文化を知り、西欧は強い衝撃を受け東方へ眼を開かせた。そして、兵士が略奪して持ち帰った品々はヨーロッパ貴族に珍重され高値で買い取られた。 
 一一四七年、イスラム教徒が盛り返しエデッサ伯国を占領した事から危機感を募らせ、教皇エウゲニウス三世の呼び掛けで第二次十字軍が結成された。
 この時の第二次十字軍にも多くの従軍者が集まったが、前回の遠征から帰還した兵士から十字軍の遠征は金になると聞き知って従軍した者が多く聖戦の意識も低く統制が取れていなかった。
 十字軍はルーム・セルジュークの首都コンヤに向かったが撃退され、なんとかパレスチナにたど辿り着いたがイスラムに迎撃され撤退せざるを得なかった。
 一一八七年、エジプトにイスラム国家のアイユーブ朝を建国したサラディンがシリアに領土を拡大し、エルサレム王国を滅ぼして九〇年ぶりにイスラム国家がエルサレムを奪回した。
 教皇グレゴリウス八世は聖地奪回の為に十字軍を呼びかけ、英国のリチャード一世、フランスのフイリップ二世、ドイツの神聖ローマ帝国(九六二〜一八〇六年、ドイツを中心とした国家連合体)皇帝フリードリヒ一世が参加して第三次十字軍が結成された。
 一一八九年、第三次十字軍が再びルーム・セルジュークに押し寄せてきた。ルーム・セルジュークは国力も充実したクルチュアルスラン二世(一一五六〜一一九二年)の時であった。
 十字軍と共に来襲したビザンチン帝国は聖地奪回よりも明らかに領土拡大が目的であった。十字軍はルーム・セルジューク朝の打倒を目指し首都のコンヤに向かった。
 ルーム・セルジュークはデニズリ近郊で十字軍(ビザンチン帝国との連合軍)と対峙し、十字軍を撃破して逆にビザンチン帝国に奪われていたアナトリア西方の領土を回復した。
 第三次十字軍はコンヤを落とせなかったがアナトリアを西に進み、キリキアでフリードリヒ一世が溺死した。英国のリチャード一世とフランスのフイリップ二世はエルサレムを目指したが途中で二人は仲違いし、フイリップ二世は帰国した。残ったリチャード一世もサラディンと休戦協定を結びエルサレム奪回は失敗に終わった。
 なを、第四次十字軍はヴェネチアの誘いに乗って聖戦の目的を大きく逸脱しビザンチン帝国の首都コンスタンティノーブルを攻め陥落させた。
 エルサレムに向かう経路に位置していたルーム・セルジュークにとって十字軍との戦いはいわれなき侵略者との戦いであり、まさにジハードであった。
 ルーム・セルジュークはスルタン・アラエッディン・ケイクバト一世(在位一二二〇〜一二三七年)の時代、ビザンチン帝国に支配されていたアナトリア西方の地を奪還し、モンゴルに追われたホラズムのアナトリア進入を断念させ、ルーム・セルジューク朝が最も繁栄した時代であった。
 一二三七年、ケイクバト一世は軍を招集して新たな遠征に出発した途上、トルコの中央部に位置するカイセリの街で急逝した。毒殺との説も有り、いずれにしても国は混乱し、混乱に付け込むようにモンゴル軍が来襲した。
 一二四三年、ルーム・セルジュークはキョセ・ダウの戦いでモンゴル軍に大敗して隷属し、その後、急速に衰退して実力を失った。
 それでもルーム・セルジュークは日本の天皇家のような存在となり、一三〇八年まで命脈を保った。

 

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