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北 京
 

 

 

  昨年から犬(ボーダーコリー、名前はクー)を飼い始め旅行は諦らめていたが、知人から四〜五日なら預かっても良いとの好意に甘え、一度は訪れて見たいと思っていた中国を旅する事になった。
  妻はNHKで特集していた景色の美しい蘇州、桂林を希望したが、中国に行くなら是非、万里の長城と兵馬俑坑を見たいと思い我侭を押し通した次第。
 秋、十月中旬、寒くも無く暑くも無く中国を旅行するには最適の季節を選び、代表的な都市、北京、西安、上海の三都市を四泊五日の駆け足で廻る格安のツアーに参加した。
 関空から約三時間、北京の空港に着いたのは午後四時過ぎであった。旅行社から北京、西安の秋は少し寒く朝晩は相当に冷え込むと聞かされていたので冬物のジャケットを着て行ったが、降り立った北京は大阪の気温と変わりはなく少々暑さを感じた。
 入国手続きを済ませてゲートを出ると、ツアーの名称を書いたプラカードを高々と掲げたガイドが日本語で温泉地の客引きの如く大声でツアー名を連呼していた。日本からいかに多くの色々なツアーが企画されている事を始めて知った次第。
 人込みの中、ツアー名を記したプラカードを探し、やっと現地ガイドに会った。そこで初めて今回のツアー参加者と顔を合わせた。ツアー参加者は総勢十一名、意外にも年配の方々が多く我々夫婦が一番若かった。
 隣りに集合した二十人ほどのツアーは北京から蘇州、桂林に向かうのか若い人達ばかりであった。偶然とは云え年令によってツアー内容の好みに大きな違いが有る事を改めて知った。
 空港から市内中心部まで約四十キロ、高速道路を利用して三十分ほどの距離である。バスの車窓から眺めた北京は日本で想像していた以上に高層ビルが林立し、まるで東京、大阪の風景と変わりはなかった。
 高速道路は日本の大都市と同様に市内に近付くにつれ渋滞がひどくなり、バスの運転手は割り込みを嫌ってほとんど車間距離を取らず走っていたがそれでも強引に割り込む車が絶えなかった。
 驚いた事に車線変更にウインカーも出さず割り込んで来る。どうやらウインカーを出すのは強引に車線変更して前に割り込みますよとの合図の様である。
 しかし高速道路の荒っぽい運転は序の口で高速道路を降り市内の一般道路に入ると道路の混雑にまず驚かされた。
 車は強引な割り込みを繰り返し、自転車や三輪車(後部に大きな荷台がついている)は隙間が有れば車の間を擦り抜け、人は走行する車の目前を駆け抜ける。車道も歩道も自転車で溢れ、自転車大国と聞いていたが自転車がこれほど多いとは思わなかった。
 当初、気が付かなかったがバイクを見かけない事に気付いた。中国はバイクが多いと聞いていたが北京ではさっぱり見掛けないのでガイドに聞いて見ると数年前から交通渋滞の原因になるとして北京ではバイクにナンバープレートを出さなくなったとの事。時折見掛けるバイクは警察のバイクか若しくはナンバープレート発行停止直前に取得したバイクが走っているに過ぎないとの事であった。
 見た所、交通渋滞の原因はバイクでは無く、車道を我が物顔で走る自転車が大きな原因ではないだろうか。それに信号機の数が極端に少なくその上、前方の信号が赤でも右折(中国は右側走行)出来る事から信号の有る交差点では人と車と自転車が入り乱れ、良くこれで事故が起きないものだと感心させられた。
 北京にはおよそ二百万台の車が登録(九八年十月の統計)されており、東京都の四六〇万台に比べ半分以下であるが交通規制の方法と交通マナーが悪く広い道路に関わらず渋滞が絶えなかった。
 北京市内を車窓から眺めると二〇〇八年のオリンピック開催に向けて至る所で道路の拡張工事と古い建物を取り壊し高層建築に建替える猛烈な建築ラッシュであった。
 北京地方の標準的な建物である四合院(中庭を真中に東西南北に建物があり、水道は一つ、トイレは共同で大家族が暮らしていた。)が連なるフートン胡同も次々に取り壊され瓦礫の山を築いていた。その為か街中が埃っぽくどの車も埃を被って薄汚れていた。
 中国は一九七七年、三度の失脚から三度(みたび)甦った不死身の政治家、ケ小平(一九〇四〜一九九七年)が一九七九年に「改革・解放」政策を提唱し一気に中国の近代化を推し進めた。
 北京も急速な発展を遂げ日々変貌している。近代的な高層マンションの横に取り壊した瓦礫の山、取り壊しを待つ無住の胡同、至るところで土煙を上げて取り壊しが行なわれていた。
 街のあちこちにクレーンが林立し、建築中の高層ビルを至る所で見かけた。街の景観は訪れる度に変わっていくことが想像出来る。
 道路は人と車と自転車で溢れ、道の両側は戦後の闇市の如く商店と食堂が軒を連ね喧騒と活気に満々、車窓から眺めた限り古都のイメージには程遠い景観であった。
 街中はせわしなく行き交う人々で溢れ、人も車も先を争って我が道を突き進む、何処もかしこも喧騒と活気が渦巻き、不況で沈滞する日本と比べ躍進する中国を垣間見た感じがした。
 中国は遥か古代から日本をはじめ近隣諸国に多大な影響を与えてきた。箸を使い漢字を用いる文化圏は国家の制度も含め中国に倣い、中国は常に文化の中心であった。
 史記を著した司馬遷は中国古代の歴史を五帝本紀から書き起こし、およそ四千年前、??(せんぎょく)の後裔(こうえい)、禹(う)が夏王朝を建国したと記している。(五帝とは黄帝(こうてい、中華民族の祖)、??、?(こく)、堯(ぎょう)、舜(しゅん)、いずれも古代の聖王であった。史記の最初に書かれている三皇本紀は唐の司馬貞が補遺(ほい)として書き加えた。三皇とは庖犠(ほうぎ、蛇身人首で聖徳があった)女?(じょうか、蛇身人首で神聖の徳があった)神農(しんのう、牛頭人身の神、医薬の神、日本でも薬の神として崇められている))
 一九二八〜一九三七年にかけて中華民国中央研究院の歴史語言研究所が河南省の安陽で殷墟(いんきょ、洛陽の東、百二十キロ)の大規模な発掘を行ない殷(いん、商)王朝の宮殿址が発見された。出土した銅器、白陶、玉器と共に文字を刻んだ甲骨から殷王朝の存在が明らかとなった。
 史記の記載が立証され、禹が舜の禅譲を受けて安邑(あんゆう、山西省)を都とした伝説の国、夏王朝の存在も事実かもしれない。
 夏王朝は遥か昔の紀元前二十一世紀頃から紀元前十六世紀頃に栄え、十七王の名が史記に記されている。第十七代、桀(けつ)王は徳を治めず暴虐であった。諸侯は皆、殷の湯(とう)王に帰し、殷の湯王はついに夏の桀王を討ち、殷王朝を創始したとある。
 古都、北京の歴史も古く、史記に拠ると約三千年前の殷の時代、中国には数百の国が有り、各国の君主は王とは名乗らず候と称し殷に服従していた。
 殷王朝は三十代続き、滅亡に導いたのは紂(ちゅう)王であった。紂王は傾国の美女、妲巳(だっき)に溺れ酒池肉林の宴を催し、忠臣を退け悪政をしいて諸侯の反撥を招いた。
 諸侯は殷と疎遠になり周(しゅう、紀元前十一世紀頃〜紀元前二五六年)の西伯(せいはく、文王)に付き従い殷を討つべしと進言したが西伯は時至らずと応えて動じなかった。
 西伯が没し、武王が周を継いだ。武王も聡明な王であった。殷を討つべしとの進言にも耳を貸さず天命、未だ至らずと応えて諸侯の言に乗らなかった。武王は熟柿が落ちるが如く殷王朝が自壊するのを待った。
 紂王は悪政を重ね、比干(ひかん)が諫(いさ)めたが聞き入れず、聖人には七つの竅(あな)が有ると聞き及んでいると云って比干(紂王の叔父)を解剖した。
箕子(きし、紂王の叔父、後に武王に仕え朝鮮に封じられた。朝鮮では史記の記述を踏まえ紀元前一一二二年、箕子朝鮮を建国したとの伝説がある。)は懼(おそ)れて狂気を装ったが捉えられ牢獄に繋がれた。
 ついに周の武王は太公望呂尚(たいこうぼうりょうしょう)の勧めに応じて出征の軍を発し、諸侯も軍を合わせた。紂王も軍を発し牧野(ぼくや、河南省)で防いだが敗れ、紂王は宝玉の衣をまとって火中に身を投じ、妲巳は殺された。
 斯(かく)して周の武王が天子となり、戦功のあった功臣を諸国に封じた。太公望呂尚を斉(せい)に封じ、功労の有った召公?(しょうこうせき、燕の初代国王)を燕(えん、河北省、紀元前一〇四六〜紀元前二二二年)に封じた。
 召公?は今の北京の西南、房山区の辺り董家林に都を置いた。北京が歴史に登場する最初であり、時代は紀元前一一二二年から紀元前一〇二七年の間とされている。その後、燕は昭王の時、薊(けい)の地に宮殿を築き、都を遷した。
 燕の昭王は国が破滅した後に位に就き、賢者を招いた。ある時、昭王は師傳(しふ、天子を教え導く官名)の郭隗(かくかい)に優れた人士を招くにはどうすれば良いかと問うた。郭隗はそれなら、まず、隗を厚遇する事から始めなさい、そうすれば隗より賢明な人士が千里の道も遠しとせず参集いたしましょう。
 昭王は郭隗の言に従い郭隗の為に宮殿を建て厚遇した。そうすると一年も経たぬ内に優れた人士が争って燕国に集まり、楽毅(がっき)も魏の使者として燕に赴いた。昭王は賓客として待遇しようとしたが楽毅は辞退し臣下となった。こうして「隗(かい)より始めよ」の格言が生まれた。
 燕の昭王は楽毅を上将軍にして斉を伐ち、燕が強盛を誇った時代もあった。しかし、、韓(かん)、魏(ぎ)、趙(ちょう)、斉、楚(そ)を滅ぼした秦(しん)には勝てず約八百年間続いた燕王室も紀元前二二二年、秦に滅ぼされた。
 今も北京の別称は燕の国都に由来する「燕京」と呼ばれており、北京の土産物店では「燕京」と刺繍を施した帽子が販売されていた。
 燕は北方の匈奴を防ぐ為、営々と長城を築いた。今は観光地となっている居庸関(きょようかん)、慕田峪(ぼでんよく)の長城、司馬台の長城も最初は燕が築いた。
 燕が亡びその後、秦、漢、南北朝、隋、唐と王朝は代わったが北京は政治、軍事上の要地として重視された。
 燕が亡んで約千百年後、北京を国都とした王朝は五代十国の頃の遼(りょう)であった。(五代十国とは、九〇二年〜九七九年にかけて国が乱立した時代で、北方では後梁、後唐、後晋、後漢、後周の五代にわたって激しく王朝が代替わりし、南方では呉、呉越、南平/荊南、前蜀、閔、南漢、楚、後蜀、南唐、北漢の十国に分裂しいずれも短命の王朝であった。)
 遼は耶律阿保機(やりつあぼぎ)が中国東北部の契丹族(きったん、モンゴル系の民族)を統一し、九一六年、モンゴル平原に大帝国(契丹国)を築き上げた。
 遼はしばしば長城を越えて中国北辺に侵入し漢民族の国、後唐(九二三〜九三六年)に脅威を与えていた。
 九三六年、後唐(九二三〜九三六年)の河東節度使(現在の山西省一帯の軍政長官)であった石敬?(せきけいとう、八九二〜九四二年)は皇帝の座を狙い叛乱を企てたが兵が足りず、契丹に兵を出してくれるなら燕雲(えんうん)十六州(現在の河北省と山西省北部)を契丹に割譲するとの条件を示し援軍を要請した。
 契丹は好条件に応じて援軍を送り後唐の都、洛陽に攻めこんだ。後唐は亡び、石敬?は後晋(九三六〜九四六年)を建国したが引き換えに燕雲十六州は契丹の領土となった。こうして北方民族が始めて中国の地に領土を持った。
 北京を含む燕雲十六州を手に入れた契丹は九三八年に国号を遼(りょう、九一六〜一一二五年)とし、北京を南京と称した。
 その後、漢民族の宋(北宋、九六〇〜一一二七年)が中国を統一したが燕雲十六州は相変わらず遼の支配下にあった。
 宋は燕雲十六州を奪い返すべく度々軍を発したが敗れ、逆に宋の都、開封にまで攻め込まれた。宋は已む無く遼に毎年絹二十万匹,銀十万両を贈る屈辱的な条約を結び和平した。
 一一一五年、遼の支配下にあった中国東北部、現在の黒竜江省ハルビン一帯で狩猟を糧としていた女真族(ジュルチ、満州族)が遼の支配に反撥し、やがて完顏阿骨打(わんやんあくだ、一〇六八〜一一二三年)が諸部族を統一して金(きん、一一一五〜一二三四年)を建国した。
 足元を脅かされ脅威を感じた遼は金を押し潰そうと七十万の大軍を発した。しかし、金は松花江で遼軍を迎え撃ち、大勝利を収めて逆に現在の遼寧省、吉林省など遼東の地を版図に入れた。
 北方の新興国、金が遼の大軍を破ったと知った宋は長城以北を金、以南は宋が領有する条件で同盟を結び南北から遼を攻めた。
 金は長城以北を瞬く間に制圧したが、宋は遼の抵抗にてこずり燕雲十六州を奪い返せなかった。様子を窺っていた金は宋の弱体を知り、長城を越えて燕雲十六州に攻め込み遼軍を撃退した。
 こうして遼は亡び、王族の一人であった耶律大石(やりつだいせき)は一族を率いて中央アジアに逃れ、西遼(カラ・キタイ)を建国した。
 宋は金と条約を交わし多額の金品と引き換えに燕雲十六州を領土としたが盟約を守らなかった。宋の盟約違反に金は大軍を南下させ宋の都、開封(河南省開封市)を包囲した。驚いた宋は再び地図を差出し、金は囲みを解いた。
 しかし、宋は再び盟約を守らなかった。怒った金は再び開封を包囲して攻め落とし、宋の徽宗皇帝をはじめ皇族や官僚を含め数千人を捕虜にして長城の北に連れ去った。こうして金は宋(北宋)を滅ぼしたが、遼に替わって華北の燕雲十六州を領有するにとどまった。
 金が徽宗皇帝を連れ去った後、康王に封ぜられていた徽宗皇帝の九男、高宗(一一〇七〜一一八七年)が即位し、都を臨安(りんあん、現在の杭州)に遷して南宋を建国した。
 一一四九年、金の四代皇帝の座に着いた海陵王(一一二二〜一一六一年)は百二十万人を動員して北京に新しい都の建設を始めた。
 一一五三年に建設が終わり、首都を北の上京(現在の黒竜江省ハルビン)から北京に遷都し、この新しい都を中都、大興府と命名した。
 女真族の金が北京を支配したのはおよそ百年足らずであった。替わって北京を支配したのは元の太祖、チンギス・ハーン(成吉思汗、一一六二〜一二二七年)であった。
 チンギス・ハーンは分裂していたモンゴル高原の諸部族を統一し一二〇六年、クリルタイ(諸部族の族長会議)を開いて大ハーン位に就きモンゴル帝国を樹立した。
 そして、チンギス・ハーンに率いられた騎馬軍団は一二〇五年、一二〇七年、一二〇九年と三次に亘って、西夏 (せいか、一〇三八〜一二二七年)に攻め込み西夏を服属させた。(西夏は李元昊(りげんこう)がタングート諸部族を統合して建国し、李元昊以降十代約二百年間続いた。井上靖著「敦煌」の舞台で、主人公の趙行徳が西夏の女を助けたことから物語が始まる。)
 一二一一年四月、チンギス・ハーンは万里の長城を越えて金に攻め込み、北京の北方五十キロに有る難攻不落の要塞、居庸関(きょようかん)を占領した。
 一二一三年、金の中都、大興府(北京)を包囲した。金は講和を申し入れて北京を開城し開封に退いた。華北はモンゴル帝国の版図となり、北京は華北支配の拠点となった。
 チンギス・ハーンは東方の制圧をムカリ(チンギス・ハーン配下の四人の知将の一人。四駿(ししゅん)とも四傑とも称され、ムカリ、ボオルチュ、ボロクル、チラウンの四人)に任せ、自らは西征を行った。
 一二一八年、西遼(カラ・キタイ)を滅ぼし、イランから中央アジアにかけて領土を持っていたイスラム教国のホラズム王国に通商の使節を遣わした。
 しかし、この使節と随行していた隊商はオルトラルでホラズムの知事に皆殺しにされ、高価な積荷は略奪された。チンギス・ハーンは謝罪と知事の処罰を要求する使節団を再度派遣したがこの使節団も皆殺しにされた。モンゴルの法に依れば使節を殺すことは許しがたい犯罪であった。
 こうして使節団の虐殺を切っ掛けにヨーロッパを震撼とさせたチンギス・ハーンの西征が開始された。西夏にも西征の軍を派遣せよとの指令が届いたが、西夏は軍を派遣しなかった。
 一二一九年、チンギス・ハーンは二五万の大軍でホラズム王国に進軍した。ホラズム王国も三五万の兵を動員し迎え撃ったが、モンゴルの騎馬軍団は降伏を拒んだホラズムの諸都市を次々に撃破し皆殺しにした。使節団が殺されたオルトラルでは一兵も残さず殺され、モンゴルの使節団に死を命じた知事はチンギス・ハーン自らの手で処刑された。
 一二二〇年、チンギス・ハーンはホラズム国の首都サマルカンドを攻略したがスルタンのムハマドは落城前に逃走した。
 チンギス・ハーンは三人の息子達にムハマドの死を目撃するまで戻るなと追撃を命じた。この軍も降伏を拒んだ諸都市は徹底的に破壊し皆殺しにしてムハマドを追った。ムハマドは軍を立て直す余裕もなくカスピ海の孤島に逃れたが失意のうちに病没した。
 一二二五年、西征を終えたチンギス・ハーンはモンゴルのカラコルムに凱旋帰国し、盛大な競技会を催し、勝者には惜し気もなく高価な賞品が贈られた。ホラズムのハーレムから捕虜として連れ帰った美女も賞品として勝者に与えられた。
 競技会を終えるとチンギス・ハーンはクリルタイを招集し、西征の軍を派遣しなかった西夏を攻める勅命を下した。
 こうして西夏は西征の軍を派遣しなかった代償を払わされる事となった。チンギス・ハーンは兵を長く休める事無く、翌年の一二二六年、西征に従わなかった西夏に侵攻を開始した。
 許しがたい一念で西夏に遠征したチンギス・ハーンは既に六十二歳であった。強靭な肉体も萎えを来たしたのか遠征の途上、騎乗していた馬が野生馬に驚き、チンギス・ハーンを振り落とした。これが元でチンギス・ハーンは高熱を発し病の床に伏したが西夏遠征は続行させた。
 一二二七年、西夏の王とその家族と従う兵士を皆殺しにせよと命じてチンギス・ハーンは崩御した。その三日後、西夏は陥落し、チンギス・ハーンの遺体は軍勢に囲まれて生まれ故郷を目指した。この行軍では人と云わず、獣と云わず、出会う生き物は全て殺した。
 チンギス・ハーンの遺体はモンゴル高原のケルレン川の流域に埋葬した後、騎馬軍団がその上を何度も往復して墓の痕跡を完全に消し去ったと伝えられている。今も墓所は不明である。
 チンギス・ハーンの跡を継いだのは三男の太宗、オゴタイ(一一八六〜一二四一年)であった。 オゴタイは開封に拠った金朝を滅ぼし、高句麗を服属させ、西征の軍を派遣してロシアを占領し、ポーランド・ハンガリーにまで進出した。
 巨大な帝国を築いたオゴタイは一二三五年、カラコルム(現在のモンゴル国中部)に万安宮を築いて首都とした。
 第三代の定宗、グユクは即位二年で病死し、第四代はチンギス・ハーンの末子トゥルイの長男、モンケ(憲宗)がハーン位(帝位)に就いた。
 モンケは弟のフビライ(チンギス・ハーンの孫、一二一五〜一二九四年)を南宋攻略の総督に任命し、フビライは大軍を率いて南宋に攻め入った。
 フビライは南宋と戦いを繰り広げ、武漢を包囲していた最中にモンケの訃報を受けた。首都カラコルムでは末弟のアリクブガがハーン位継承を画策していた。
 フビライは急いで宋と和睦し、大軍を率いて北帰し、大軍に物を言わせて開平(現在の内蒙古自治区正藍旗)でクリルタイを催し第五代のハーン位に推戴された。
 しかし、アリクブガはフビライが開いたクリルタイを認めず敵対し、ハーン位に就いた。こうしてハーン位継承の戦いとなったがアリクブガは敗れて降伏したが、今度はアリクブガを支持していたオゴタイ・ハーンの孫ハイドゥが反乱を起こした。
 この反乱も失敗に終わったが、モンゴル帝国は中国と西北モンゴルを含む元、中央アジアのチャガタイ・ハン国(一二二七〜十四世紀後半 チンギス・ハーンの第二子チャガタイの後裔によって建国された王朝国家)、ロシアのキプチャク・ハン国(一二四三〜一五〇二年 チンギス・ハーンの長子ジュチの系統の王朝国家)そしてイラン方面のイル・ハン国(一二五八〜一三五三年 チンギス・ハーンの孫フレグ(フビライの弟)が建国した王朝国家)に事実上分裂した。
 ハーン位に就いたフビライ(元の世祖)は金の国都の呼び名、燕京(北京)を引き継ぎ、燕京を中都、開平を上都として、モンゴル高原と北中国に覇権を確立した。
 一二六七年、フビライは燕京の旧都に見切りをつけ、現在の故宮を中心とした位置にまったく新しい都の建設に踏み切った。
 しかし工人達は都の中心をどこにするか議論百出していた。それを見たフビライはこの矢が突き立った所を皇居の中心にせよと宣し、現在の北海公園のなかにある団城に立ち東南に向かって矢を放った。こうして皇居の中心が決まり、その地に大明殿が建設されたと伝えられている。
 王城の建設は急ピッチで進められ、一二七四年に主殿である大明殿(現在の太和殿と同規模)が完成し、一二八三年にはほぼ王城が完成した。
 一二七一年、フビライは国号を元(一二七一〜一三六八年)とし翌年、中都(燕京)を大都(北京)と改めた。
 一二七六年、フビライは南宋の首都、臨安(りんあん、現在の杭州)を陥落させて宋は亡び、漢族以外の統一王朝が始めて中国に登場した。
 そしてフビライは朝鮮の高麗を従属させ、鎌倉時代に二度に亘って日本征討の遠征軍を派遣したがいずれも成功しなかった。(一二七四年の文永の役、一二八一年の弘安の役)
 元は中国を統一すると駅伝の制を整え、牌子(はいず、通行許可証)を持つ者には宿駅での宿泊、馬の交換等の便宜を図った。この制度によりヨーロッパとの交易が盛んとなり、大都は十二〜十三世紀、世界最大の都であった。
 東方見聞録を著したマルコポーロも父や叔父と共に牌子を持ってシルクロードを旅し、一二七五年、北京に到着した。二十歳そこそこのマルコポーロはフビライに謁見し元朝に仕えて十七年間、元に留まった。
 一二九二年、マルコポーロはイル・ハン国に嫁ぐ王女に随行して帰国の途に着いた。そしてヴェネチアに帰り着いたのは三年後の一二九五年であった。
 元朝は約百年続いたが十四世紀中頃、各地で反乱が勃発し政情は不安定となった。特に、白蓮教という宗教結社を中心にした反乱が大きなうねりとなり後世、紅巾の乱と呼ばれる大規模な反乱に発展した。後に明の皇帝となる朱元璋(しゅげんしょう)も紅巾軍に加わった一人であった。
 朱元璋は貧しい農家の四男坊であった。口減らしの為、出家に出されたが寺も貧しく三年ほど放浪生活を送っていた。食に窮した朱元璋はまだ十代の若さで白蓮教という宗教結社に入り紅巾軍に加わった。朱元璋は瞬く間に頭角を現し大部隊を指揮するほどになった。
 一方、元朝は反乱の鎮圧に見切りを付け一三六八年、滅んだのではなく中国を放棄してモンゴル高原へ去っていった。
 各地で決起した叛乱勢力はそれぞれの地を支配し、戦国時代と同様に互いに対立し領地を巡る争いを繰り広げた。戦乱の中を生き抜いた朱元璋は南京を本拠として各地の叛乱勢力を次々に倒しやがて中国を統一した。
 朱元璋は豊臣秀吉と同様に貧農から身を起こして乱世に生き、秀吉が夜盗の一団に加わったと同様に朱元璋も紅巾軍に加わって立身出世を遂げ、権謀術数を重ねて皇帝となった異色の人物である。
 朱元璋が秀吉とは異なり民衆に人気が無いのは非常に残虐で猜疑心が強く、即位後は明王朝の存続に腐心した功臣を次々と粛正(しゅくせい)し、五万人を処刑したと云われている故であろうか。
 しかし、中国歴代王朝の創始者で身分もない農民出身者が王朝を開いたのは秦の崩壊後、項羽を倒して漢を建国した劉邦(高祖)と明の朱元璋(洪武帝)の二人だけではないだろうか。
 明(一三六八〜一六四四年)を建国した朱元璋(洪武帝、一三二八〜一三九八年)は南京を都とし当時「京師(けいし)」、つまり天子の都と称した。洪武帝が没し二代皇帝には朱元璋の孫、建文帝が皇位に就いた。
 ここにお家騒動が勃発し燕王に封じられていた朱元璋の四男、朱棣(しゅてい、永楽帝、一三六〇〜一四二四年)が反乱を起こし四年に及ぶ激戦の末に南京を陥落させて帝位を奪った。
 永楽帝(朱棣)は一四〇六年から十四年の歳月を要して燕都に都を造営して遷都し、新しい北の都を北京と称し、今までの都「京師」を南の都、すなわち南京と称した。この様に北京の名称も南京の名称も明王朝に始まる。
 明の末期、宦官(かんがん)の専横甚だしく政治が乱れ、増税を課された農民は各地で叛乱を起こした。叛乱勢力は流賊と呼ばれ、都市を攻撃して略奪を繰り返し神出鬼没で明軍も掃討出来なかった。沿海部ではわこう倭寇の侵攻に悩まされ、豊臣秀吉は明を攻めるべく朝鮮に出兵した。
 この様な明末の混乱に乗じて女真族(満州族)の奴児哈赤(ヌルハチ)が諸部族を統一し、一六一六年、明から自立して中国東北地方(満州)に後金国を建国し都を瀋陽(しんよう、奉天)に定めた。
 一六三六年、二代目の太宗(ホンタイジ、?〜一六四三年)が国号を清と改め、万里の長城を境に明と戦いを続けていた。
 一方、明を滅ぼした李自成(りじせい、一六〇六〜一六四五年)も流賊の一団であった。明が北方の清と戦いを繰り広げている間に李自成の軍団は大きく成長し四十万の大軍に膨れ上がった。
 一六四四年三月、李自成、率いる反乱軍が紫禁城を包囲すると、明朝最後の皇帝すうていてい崇禎帝が信頼していた宦官の一人が城門を開き李自成軍を迎え入れた。
 こうして北京はあっけなく陥落し、崇禎帝(十七代)は紫禁城を抜け出して裏山の景山に登り、槐(えんじゅ)の木に帯を吊るして縊死(いし)した。
 万里の長城の最東端、山海関で清と熾烈な戦いを繰り広げていた明の将軍、呉三桂(ごさんけい、一六一二〜一六七八年)は蘇州美人の陳圓圓(ちんえんえん)と言う女性を側室として北京に留めていた。
 呉三桂は明が亡んだと知って、陳圓圓の安否を気遣い、高位高官を条件に清に寝返り長城の山海関を開いて清軍を中国本土に導き入れた。そして清軍と軍を合わせ共に北京を目指した。
 李自成も四十万の大軍を率いて迎え撃ったが、四十万の大軍もしょせん烏合の衆であり呉三桂率いる明の正規軍と清軍には勝てず簡単に撃破され、李自成は敗走しその後、自殺したとか、農民に殺されたとか、隠れ住んだとか、様々な説が有る。
 こうして北京は清の世祖順治帝(じゅんち、在位一六四三〜一六六一年)の時、当時人口六十万、兵力十五万と云われた女真族の支配下に置かれた。
 中国を支配下に置いた少数民族の女真族は清に従うか否かを見分ける便法として、満州族の風習であった弁髪(べんぱつ、後頭部の髪を長く伸ばして三つ編みにし残りの髪を全て剃ってしまう髪型)を強要し、中国全土に弁髪令を発布した。「頭を留めれば髪を留めず。髪を留めれば頭を留めず」髪を剃らぬ者は直ちにその首を刎ねた。
 北京を都と定めた清は辛亥(しんがい)革命の起こる一九一一年までの二六七年間、中国を支配し、この間、西洋人から豚のシッポと揶揄(やゆ)された弁髪が中国男児の風俗として続いた。
  因みに現在の中華人民共和国の領土は清の六代皇帝乾隆帝(けんりゅう、一七一一〜一七九九年)の時、チベットと東トルキスタンを併呑(へいどん)して中国史上最大の版図となった領域をほぼ踏襲している。
 清朝、最後の皇帝愛新覺羅溥儀(あいしんかくらふぎ、十二代宣統(せんとう)帝 映画ラストエンペラーの主人公)は周知の通り数奇な運命をたどった。
 一九〇八年、三歳で即位し、一九一一年に辛亥革命が起こると革命派と妥協した袁世凱(えんせいがい)によって六歳で退位させられ、十八歳まで紫禁城に軟禁された。
 一九二四年、紫禁城を追われた溥儀は北京の日本公使館に避難し日本の保護下で暮らした。日本軍が女真族の故郷、満州を領有すると満州国皇帝に祭り上げられた。
 一九四五年、日本の敗戦によって退位を宣言し日本に亡命の途中、ソ連軍に逮捕され戦犯としてソ連に抑留された。
 一九五〇年、中国に引き渡され刑務所に服役したが、一九五九年に特赦で出所した。出所後は一市民となり植物園の庭師として一九六七年に永眠した。
 新生中国は一九六六年に始まる文化大革命、一九八九年の天安門事件等々、暗黒の時代を経て、復権したケ小平が改革開放を旗印に経済改革を推し進め、躍進する中国に変貌させた。
 ガイドの職(しょく)さんが「自分の力で富を得られる、自由な世の中になったのはケ小平の御蔭です」と語った言葉が非常に印象的であった。

 北京は中国の首都として政治、経済の中心であると同時に明、清二王朝の遺跡が数多く残る街でもある。
北京周辺の主な観光地を挙げると、明王朝十三人の皇帝の陵墓、「明の十三陵」、明の永楽十八年(一四二〇年)に建造された「天壇(てんだん)」、明の時代に修復された「八達嶺長城」、「居庸関」、世界最大の宮殿「故宮」、「天安門」、有名な古典庭園の一つ「頤和園(いわえん)」、ラマ廟「雍和宮(ようわきゅう)」、「周口店北京原人遺跡」、日中戦争の発端となった「盧溝橋(ろこうきょう、マルコ・ポーロ・ブリッジ)」等々、名所旧跡が数多く有るが、今回は駆け足ツアーでも有り、北京では「八達嶺長城」、「居庸関」、「故宮」、「天安門」を訪れた。
 北京を案内して頂いたガイドの謝(しゃ)さんの説明によると、「歴史の上では春秋戦国の時代、七雄の一国、燕国がここを都として、薊(けい)城を築いた時から、北京は王城としての歴史が始まった。その後、遼・金・元・明・清の五つの王朝がここ北京を都と定めた。辛亥革命の後、国民政府の中華民国は南京を首都としたが中華人民共和国は北京を首都とした。北京は中国の政治、経済、文化の中心地であり、中国の直轄行政区の一つでもある。(北京、上海、天津、重慶、が直轄行政区、香港、澳門(マカオ)は一国二制度の特別行政区)中国は多民族国家で漢族、回族、満族、蒙古族、苗族をはじめとして五十六の民族が暮らしている。北京で暮らす少数民族は約三十万人と言われており五十六の民族全てが北京に居住している。北京は河北省のほぼ中央に位置し、北京市内から山は見えないが北は内蒙古高原に接し、尾根筋に万里の長城が延々と続く燕山山脈、西に太行山脈が連なる黄土高原、東に渤海を臨む、華北平原の北端に位置し、だいたい日本の秋田市と同じ緯度にある。面積は約一万六八〇〇平方キロ、日本の四国の面積とほぼ同じぐらいである。全市の三分の二を山地が占め、北京市内は標高およそ四十四メートルである。北京の気候は内陸性気候の典型で夏は暑くて時には摂氏四十度近くに達し雨が多く、冬は寒さが厳しく零下十数度の冷え込みが続く、一年で最も長い冬の間は約百三十日間も晴天が続き乾燥している。春は乾燥して風が強く、日本にも飛来する黄砂いわゆる「黄塵万丈(こうじんばんじょう)」の日も時に見られる。「天高く馬肥ゆる秋」は湿度の低い土地柄だけに、空は碧く澄み渡り気温も穏やかで、一年のうちで最も好い季節であり「北京秋天(しゅうてん)」と言う言葉もある。しかし、春と秋はそれぞれ五十日ほどと短く、年平均降雨量は約七百ミリ程度である。その半分は七、八月に降り、五月から気温が上がり蒸し暑く過ごしにくくなる。」
 北京ガイドの謝さんの年の頃は四十代後半から五十代前半とお見受けした。温厚な人柄で流暢な日本語を話し、中国の歴史、文化に造詣が深く故宮を案内して頂いた時もその博識に感心した次第。
 訪れた北京は二〇〇八年のオリンピック開催を目指し至る所で道路工事が行なわれていた。そして経済発展を象徴する建設ラッシュの最中にあり、高層マンションを建設するクレーンが林立していた。
マンションの建設予定地であろうか街のあちこちで土煙が舞い上がるのもお構いなしに手荒く古い家屋を取り壊し、瓦礫の山がうずたかく積み上げられていた。
 かように訪れた北京は「北京秋天」を期待してわざわざ十月中旬を選んでツアーに申し込んだが、大規模な都市再開発が進行しており、古都のイメージとは程遠く街路樹も粉塵を被り埃(ほこり)まみれの街であった。

 

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