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万里の長城
 


 

 

 翌朝、ホテルを早朝に出立し、毛沢東が「万里の長城に到らない者は、立派な男ではない」と詠じた、万里の長城、八達嶺に向った。
この日は曇り空で早朝の北京は肌寒かった。日が差せば暖かくなるであろうと思い薄物のジャンバーを羽織ってバスに乗り込んだ。
 八達嶺は北京の西北に有り市内からおよそ六十キロ離れている。七時半頃、ホテルを出発したので北京市内は丁度、八時〜八時半出勤のラッシュ時に遭遇した。二両連結のバスは鮨詰めの超満員、東京の地下鉄より凄まじい混み方であった。
 道路は自転車と車で大混雑であった。道路一杯に広がって自転車通勤する情景をかつてテレビで見たことが有ったが、百聞は一見にしかず、凄まじい数の自転車が広い歩道をはみ出し車道もお構いなしに走っていた。乗っているバスが自転車とすれ違う時は「はっと」させられる事もしばしばであった。
 北京市内を抜け八達嶺高速道路を二〜三十分も走ると景色は一変した。北京市内からは見えなかった山が意外に近い事に驚きを感じた。どの山も潅木が茂る岩山であった。
 高速道路は片側四車線の広々とした一直線の道路が続き、道路脇には柳の街路樹が植えられていた。山間部に入ると渓谷沿いの山腹を縫うように走り、北京市街からおよそ五十キロの地点に居庸関(きゅようかん)の要塞があった。
 居庸関の要塞は両側に高い山が聳え、屏風の様に切り立った岩山が幾重にも折り重なって続き、山々の間は深い渓谷を刻む地形であった。高い山々の尾根には延々と城壁が続いていた。
 紀元前五世紀頃の戦国時代、北京を都とした燕は胡狢(こかく、北方の夷狄)の侵入に悩まされ、狭隘(きょうあい)の地を利して居庸関の要塞を築いた。胡狢が長城を越えて攻め寄せても第二の関門としてこの要塞で防いだ。
 居庸関には東西に関門があり東の関門には「居庸外鎮」西の関門には「北門鎖鑰」(鎖鑰(さやく)とは錠前と鍵の意、出入に重要な地点)の扁額が掛っているとの事。
 堂々とした外観を備えた二つの関門の間は高い塀が巡らされていた。関門の作りは門の中に敵兵を引き入れて門を閉ざし城壁から弓矢を射て一網打尽に討ち果たす工夫であろう。又、城内に入った敵兵には城壁の上から油を流して火をかけるのか石作りの樋(とい)が関門の広場に向って突き出ていた。居庸関は狭隘な地形を利して大軍の侵攻を阻む北方守備の重要な関門であった事がうかがわれる。
 車窓から見渡すと城壁は谷底の居庸関から急角度の山の斜面を一気に駆け上がり、高い山の頂きを越えて尾根筋に延々と続いていた。尾根を分断する人工物の城壁も雄大な自然の中に溶け込み、それは素晴らしい景観であった。
 居庸関の景色は風雅を好んだ金王朝の六代皇帝章宗が自ら歩いて選んだと云われる北京の景勝地、「燕京(えんきょう)八景」の一つに数えられている。
 居庸関の景色が「燕京八景」の一つに選ばれたのも成る程とうなずける壮大な眺めであった。(燕京八景とは金の章宗が選んだと云われる北京の景勝地。居庸関の濃い緑を頌(たた)える「居庸疊翠」、徳勝門外に降る雨を思う「薊門煙樹」、盧溝橋の空に浮かぶ暁の月を捉える「盧溝暁月」、玉泉山に掛かる虹を描く「玉泉垂虹」、香山に白く積もった雪を愛でる「西山晴雪」、北海(現在の北海公園の池)に浮かぶ瓊(けい)島の春景色を歌う「瓊島春陰」、北海の南に続く中海という池の秋景色を想う「太液秋風」、南壇あたりにあったのではという金台の夕景色を記す「金台夕照」です。李順然著、「わたしの北京五十万年」より抜粋)
 居庸関からおよそ十七〜八分で八達嶺の駐車場に着いた。バスを降りると曇り空でかなりの標高が有るのか、気温は七℃と低く薄着では震え上がるほどの寒さであった。
 駐車場には二人乗りの人力車が有り、乗らないかと客引きがかなりひつこく擦り寄ってきた。長城まで坂道を登っておよそ二十分との事、寒さに震えながら八達嶺の長城を目指して坂道を歩いた。
 時々リスが現れたり、瑠璃色の美しい鳥も見かけた。あちこちの高木の枝には枯れ木を集めた鳥の巣があり、森林浴と自然を楽しみながら寒さに耐え、八達嶺とは「四通八達」の意から取ったのであろうかなどと考えながら歩いた。
 八達嶺長城の上り口の広場には大勢の観光客が押し寄せていた。大半は中国人の団体で地方から訪れたのか赤い帽子の一団、青い帽子の一団とグループ毎に帽子の色が異なっていた。
 長城を下から見上げると数百メートルの間隔を置いて四角い城塞が連なっていた。城塞は各台(とんだい)とも呼ばれ見張台であり、狼煙(のろし)台であり、休息所であり、食料・武器の貯蔵所でもあった。
 広場の隅から高々と聳える長城を臨み、ガイドは「四つ目の城塞より先には行かないで下さい、城壁の上は急な坂道なので滑らないように」と注意を受け城壁の上に向う石段を登った。
 石段を登り城壁の上に出て、傾斜の有る甬道(ようどう、両側に土塀を築いて目隠しにした通路)を歩き最初の城塞に至るのはさほどでもなかった。二つ目、三つ目と登るにつれ傾斜は一段ときつくなった。
 どれほどの人々がこの石段を踏みしめたのか石段の角は磨りへり黒光りして滑りやすかった。そして石段の段差が均一ではなくその上、石段そのものが傾斜しており滑りやすく、歩行のリズムを狂わせた。
 時々、休憩を取っては延々と続く長城の景色を眺めながら再び急傾斜の甬道を登った。三つ目の城塞に至り、見上げると威容を誇る四つ目の城塞は直ぐそこに見えたが、そこに至る登りは極端な急傾斜であった。
 手摺に掴まり、休息を兼ねて廻りの景色を眺め、写真を撮り、再び急傾斜の甬道を登った。妻は喘ぎながら何度も休息を重ねてやっと四つ目の城塞にたどり着いた。
 四つ目の城塞は山の頂きに有り、ここからの眺めは雄大で山並みが波のうねりの様に何処までも続き波頭を左右に分かつように城壁がうねうねと視界の果てまで続いていた。
 どんよりと曇った寒さの中、雄大な景色をしばらく眺めていたが霧が立ち込め見通しが悪くなってきた。
 晴天であればどれほど壮大な景観であろうかと残念に思いつつ、寒さも厳しいので少しの時間留まっただけで引き返す事にした。
 さすがに四つ目の城塞から先に進む観光客は少なかった。長城の登り口で出会った中国の高校生の一団はまだ先を目指すのか大声を掛け合いながら次ぎの城塞を目指して駆け下って行った。
 四つ目の城塞を後にして手摺に掴まりながら急坂の甬道を下った。下を眺めると登って来る人達の延々長蛇の列であった。
 長城は宇宙から見える唯一の人工物であり、世界最大の建造物でもある。万里の長城の総延長は六、三五〇キロ、中国の里程で一二、七〇〇里(中国では一里、五百メートル)ゆえに万里の長城と呼ばれた。
 長城は匈奴の侵入を防ぐ為に築かれた。漢民族が恐れ、侵略を防ぐ為に営々と長城を築かせた匈奴とはどの様な民族であったのか。
 史記の匈奴列伝に拠ると、匈奴の先祖は夏后氏(かこうし、帝禹(う)黄河の治水を行った。)の後裔(こうえい)の淳維(じゅんい)と記している。
 そして匈奴は北方の未開の地に居住し、文字を持たず、馬、牛、羊等の家畜と共に草を追って転々と移住していた。城郭や一定の住居はなく農耕も行わなかった。壮者は良く弓を引きこなし、平時は牧畜に従事し、戦時には全員が武装騎兵となり、軍事を習練して侵略、攻伐に当たったが、これは、ほとんど天性であった。   戦況が有利な場合には進み、不利の場合には退き、逃走する事を恥としなかった。利益があればそれを獲得しようとして、礼儀などかえりみなかった。君王以下、皆家畜の肉を食い、その皮革をまとい旃裘(せんきゅう、毛織の衣)を着た。壮健者を尊び、老弱者を賤しんだ。父が死ぬと、子が継母を妻とし、兄弟が死ぬと、兄か弟かがその妻を取って、自分の妻とした。
 匈奴とは北方種族の総称で史記の匈奴列伝に登場する種族を書き連ねると、朧(ろう、甘粛省)から西に緜諸(めんしょ)、?戎(こんじゅう)、?(てき)ガン(辞書になし、豸に原の字)の戎がいた。
 岐山、梁山、水(けいすい)(以上、陜西省)の北には義渠(ぎきょ)、大茘(たいれい)、烏氏(うし)、?衍(くえん)の戎がいた。晋の北には林胡(りんこ)、楼煩(ろうはん)の戎がいた。燕の北には東胡、山戎がいたと記されている。
 どの様な種族であったのか明らかではないが史記ではこれら騎馬民族を蔑(さげす)んで戎?(じゅうてき)、胡貉(こかく)とも表現している。
 漢民族と匈奴との争いは騎馬民族と農耕民族との宿命的な争いでもあった。史記に拠ると紀元前十一世紀後半の頃から既に争いが有った事を記している。
 史記匈奴列伝には周の西伯昌(せいはくしょう、文王)が?夷氏(けんいし、犬戎)を伐った。殷の紂王(ちゅうおう)を伐って周を建国した武王も戎夷を水、洛水の北に放逐した。秦の襄公(じょうこう)は戎を伐って岐山に達し、はじめて諸侯に列した。それから六十五年後、山戎(鮮卑族、せんぴぞく)が燕を越えて斉を伐った。それから四十五年後に山戎が燕を伐った。燕は危急を斉に告げ、斉の桓公(かんこう)は北のかた山戎を伐った。その二十余年後、山戎が洛邑(らくゆう、洛陽)に攻め込み周の襄王を伐った。晋の文公が軍を興して戎?を伐って逐いはらい周の襄王を迎え入れたと記されている。
 春秋戦国時代(紀元前七七〇〜二二一年)、燕(えん)、韓)かん)、魏(ぎ)、趙(ちょう)、斉(せい)、秦(しん)、楚(そ)の七雄が覇を競っていた頃、北方の匈奴と境を接していたのは燕、趙、秦の三国であった。三国はしばしば匈奴の侵略に悩まされ共に長城を築いて匈奴を防いだ。
 史記の匈奴列伝に拠ると秦の昭王(昭襄王、紀元前三〇七年に即位し紀元前二五一年に没した。)の時、義渠(ぎきょ、戎)を伐ち、隴西(ろうせい)、北地、上郡を保有し、長城を築いて胡を防いだとある。
 趙は粛(しゅく)候の時、(紀元前三三〇年頃)長城を築いたと有り、その後、武霊王の時、胡服騎射(こふくきしゃ、匈奴の軍装と騎兵)を取り入れ、北のかた林胡、楼煩(共に戎)をやぶって長城を築き、陰山山脈の麓に沿って高闕(こうけつ、内モンゴル自治区オルドス高原の地)に到るまでを塞(とりで)とし、雲中、鴈門(がんもん)、代の三郡を置いたとある。
 武霊王が胡服騎射を取り入れたのは紀元前三〇七年、没したのは紀元前二九五年でありこの間に趙の長城が築かれたと思われる。
 燕もまた造陽(ぞうよう、河北省)から襄平(じょうへい、遼寧省)に至る長城を築き、上谷、漢陽、右北平、遼西、遼東の諸郡を置いて胡を防いだと記している。(燕、趙、秦によって築かれた長城は現在見る明の長城よりももっと北に築かれていた。)
 その後、史記に拠ると、秦の始皇帝は六国を滅ぼし天下を統一すると「秦を脅かすものは胡なり」と占い師に告げられ、蒙恬(もうてん)に三十万の兵を授けて北の匈奴討伐に向わせた。
 匈奴を北に追い遣った蒙恬は山峡を活かして境界とし、始皇帝が送りこんだ流刑者を使役して燕、趙、秦が築いた長城を繋ぎ合わせ西は臨?(りんとう、甘粛省)を起点として、東は遼東に至るまで一万余里にわたる長城を築き谿谷(けいこく)を活かして塹壕とした。送り込んだ流刑者は北の守りとしてその地に留めたと記している。
 居庸関はまさに谿谷を活かして塹壕とした砦であり、居は住まわせるの意であり庸は用いるとの意味からしてこの関は秦の時代に流刑者を定住させて関所の守りとしたと考えられる。
 漢もまた、匈奴の侵入に悩まされた。漢の劉邦と楚の項羽が攻防を展開していた頃、匈奴は中国から攻められる脅威が薄れ、次第に南下して黄河を渡り、力を蓄えていた。
 匈奴の冒頓(ぼくとつ)は父の頭曼単干(とうまんぜんう)を殺して即位し、北夷を服属させて巨大となり蒙恬に奪われた地をことごとく回復して長城を境に南の漢と対峙(たいじ)した。
 漢が中国を平定したばかりの頃、匈奴は大挙来襲し、晋陽城下に迫った。漢の高帝(劉邦)は兵を率いて親征したが冒頓の策に嵌(はま)り、高帝は七日の間、白登山上に包囲された。
 高帝は冒頓の母、閼氏(あつし、冒頓の父、頭曼の后)に手厚い贈り物をしてやっと脱出できた。以後、漢は毎年、匈奴に一定数量の?(じゅち、もちあわ)、麹(こうじ)、金、帛(はく、絹)、絮(じょ、綿)その他を贈る事と漢の公主の入嫁を条件に和平した。
 漢の六代皇帝武帝の時、皇帝は対外政策を改め守りから攻めに転じた。衛青(えいせい)や霍去病(かくきょへい)を登用して匈奴討伐に向わせ、匈奴を北方に追いやった。
 そして、武威(ぶい)、酒泉(しゅせん)の二郡を置き、その北に長城を築いた。その後さらに張掖(ちょうえき)、敦煌(とんこう)の二郡を設けた。これにともなって長城も酒泉から西へ、玉門関にまで延長された。
 後漢の光武帝の頃、匈奴は南北に分裂し、南匈奴は漢に服属して漢と共に北匈奴を攻めた。この北匈奴が敗れて西進し、ゲルマン民族の大移動を引き起こしたフン族ではないかと云われている。
 漢が滅び魏、蜀、呉の三国時代、その後の五胡十六国の時代、北魏と東晋が対立した南北朝の時代までおよそ三百七十年間、戦乱が続き煉瓦と粘土で築かれた長城は荒れるにまかされていた。
 北魏が分裂して北周(西魏)、北斉(東魏)になり、北斉の初代文宣帝は万里の長城の修築を行った。北斉も北周に滅ぼされ北周の跡を継いだ隋の楊堅が中国を統一し、隋も万里の長城の修築を行った。
 隋も煬帝の失政で滅び、李淵(りえん、初代高祖)が唐を建国した。唐の時代は匈奴も遠く北に退き外圧を受けることなく長城の修築は行われなかった。
 唐が滅んで五代十国、北宋、遼、金、南宋、元と王朝が移り変わったが、華北は唐の滅亡以降、異民族が支配する地となり侵略を閉ざしていた長城は無用の長物であるとして放置し荒れるに任せた。土塁で築かれていた長城は自然に崩落し防壁の機能を失っていた。
 一三六八年、元をモンゴル高原に追い遣り、南京から北京に都を遷した明は北方の守りを固めるため崩れ落ちた長城の修復に着手した。
 明末までの二百余年に亘って西は甘粛省の嘉峪関(かよくかん)から東は河北省の山海関(さんかいかん)まで長城を改修し、長城を匈奴との国境線とした。
 現存の長城の大半は明代に築造されたものである。北京を守る重要な拠点として八達嶺の長城も堅固に改修し、現在見る居庸関の関所も明の時代に建築された。
 明が滅亡し北方から長城を越えて侵入した異民族の清が中国を支配すると、満州、モンゴルから新疆に至る地域が中国領となり、もはや長城は軍事的な意味を失い、再び長城は放置され荒れるに任せた。
 一九一一年、辛亥革命によって漢民族が中国の主権を取り戻し中華民国が誕生したが国民党と共産党との内戦が続いた。国民党政府は五十万の兵力で江西省瑞金の共産党紅軍の根拠地を包囲し討伐作戦を行なった。
 一九三三年の秋、大規模な包囲討伐作戦に耐え切れず一九三四年十月、毛沢東は十万の主力兵を率いて包囲網を突破し、国民党の追撃を逃れて一万二千五百キロ(中国の里程で二万五千里)に及ぶ長征を開始した。
 長征は軍事的には敗走であったが二年に亘る行軍の中で毛沢東の指導権が確立し、広大な地域の人民に共産党支持を拡大し、長征そのものが中国革命史上最大のシンボルとなった。
 長征の途上、毛沢東は兵士の士気が萎えないように「北伐抗日」を訴え続け、六盤山に至った時、次の様な詩を詠じた。(六盤山は甘粛省・寧夏回族自治区にあり、長さ二百キロの山脈で最高地点は三千メートル。長征軍が一九三五年九月に突破した最後の高山。)

天高く雲淡し         
       秋の空は高くまで晴れ渡って雲は淡い
望斷す南飛の雁を       
       遠く南に向って見えなくなるまで雁が飛んで行く
長城に到らざれば好漢に非ず  
       長城に達しない者は立派な男ではない
屈指の行程二萬        
       指折り数えられるほどの難路を行軍して既に二万里
六盤山上高峰         
       上を見ると六盤山の高峰があり
紅旗西風に漫(ゆるや)かに捲(ま)かる    
       下を見ると秋風に吹かれて緩やかにたなびく紅旗がある
今日 長纓(ちょうえい)手に在り      
       今日は長纓(冠の紐、捕虜にした匈奴を縛る紐)を握り
何の時か 蒼龍(そうりゅう)を縛(しば)り住(あ)げん  
       何時かはあの蒼龍(蒋介石)を縛り上げることだろ
      
 その後、毛沢東は延安を根拠地に国民党軍と日本軍の双方に対し抗戦し、国民党軍に対しては即時停戦一致抗日を訴えたが、蒋介石は聞き入れなかった。こうした中、国民党軍の張学良によって西安事件が起こり、一九三七年七月の蘆溝橋(ろこうきょう)事件を契機に国民党と共産党による抗日民族統一戦線が結成された。 
 一九四五年、日本の敗戦とともに、中国全土での主権を回復したが、国民党と共産党との内戦が続いた。共産党は連戦連勝し国民党政権を台湾に追い出し、一九四九年、毛沢東は天安門において中華人民共和国の建国を宣言した。
 毛沢東が詠じた「万里の長城に到らない者は、立派な男ではない」の言葉が大きく作用したのか中国政府は荒れ果てていた長城を観光地として居庸関をはじめ長城の整備を進めた。長城の復興にはケ小平が尽力したと云われている。しかし、土塁とレンガで築かれた長城はその三分の二が崩れかけているとも云われている。
 北京近郊の長城として八達嶺、慕田峪(ほでんよく)、司馬台の三箇所が有名な観光地であるが、特に高速道路が通じ風光明媚な八達嶺長城が観光の人気スポットである。
 雄大な万里の長城の景色を眺めていると、匈奴とこの城壁を境に攻防を繰り返し、時には無用の長物となった長城に中国の悠久の歴史を感じる。

 

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