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兵 馬 俑 坑
 

 


 西安空港からバスで有名な兵馬俑坑(ようこう)博物館に向った。博物館は西安の東方三十八キロに有り、所要時間はおよそ一時間ほどであった。
 渭水(いすい)を渡ると車窓から眺める景色は見渡す限り畑地が地平線まで続く黄土平原であった。車窓から見た畑はトウモロコシの畑であろうか、時折見掛ける農家の庭先には刈り取ったトウモロコシの枯れ穂がうずたかく積み上げられていた。
 畑地が途切れると桐の木の林が続き、人家の周りにはたわわに実った柿の木の林があった。春、桐の木が紫の花を付ける頃この辺りの景色は一変するであろうと思った。
 西安が位置する陜西省(せんせいしょう)は平らな黄土地帯に有り、車窓から見る景色も平原であったが、前方を見ると忽然(こつぜん)と?山(りざん)が姿を現していた。気付かぬうちにバスは?山の麓に達していた。
 ?山は平原の中に屹立(きつりつ)した山で高さは一四六五メートル、鬱蒼(うっそう)とした樹林に覆われ、山の姿が黒馬にたとえられて驪山とも書き「?」「驪」どちらが正しいのか良く解からない。
 ?山の北麓に有名な秦の始皇帝陵がある。始皇帝は即位してすぐに平原に屹立した?山を埋葬の地と定めた。
 史記に拠ると天下の徒刑者七十余万人を二手に分け、一方は怐i始皇帝陵)の造営に当らせ、他方は阿房宮(あぼうきゅう)の建設に当らせた。塚は三十六年を費やして造営された。そして、怩フ盗掘に備え水脈に達するまでも深く掘り下げ銅板を下に敷いて棺槨(かんかく、ひつぎ)を納めるようにした。この怩フ中に宮殿、望楼をつくり、百官の席を設け、奇器、奇物を蔵から移してここに充満させた。
 水銀を流して百川、江河、大海を造り機械で絶えず水銀を送りこむようにした。工匠に命じて機械仕掛けのどし弩矢を作らせ、塚をうが穿って近付く者には自然に矢が飛び出す仕掛けを施した。
 二世皇帝胡亥(こがい)は始皇帝を埋葬し、先帝の後宮の女性で子のない者は全て殉死させた。そして、盗掘を恐れ埋葬に関係した工匠をことごとく塚に閉じ込めて全ての羨門(せんもん、羨とは怩フ中の道)を閉じ、怩フ上に草木を植えて山のように象(かたど)った。と史記に記されている。
 陵墓の高さは七十六メートル、東西の長さは四百八十五メートル、南北の長さは五百十五メートル、山と見紛(みまが)うほどの世界最大の墓といわれている。

 ?山に葬られた秦の始皇帝は紀元前二五九年、秦の荘襄王(そうじょうおう)の子として生まれた。しかし、実父は呂不韋(りょふい)との説もある。
 史記に拠ると秦始皇帝本紀には公子の子楚(しそ、荘襄王)が趙の人質となって邯鄲(かんたん)に住んでいた頃、大商人であった呂不韋の妾の一人をみそめて娶り政(せい、始皇帝)を生んだと有る。
 一方、同じ史記の呂不韋列伝には、ある時、呂不韋の館に招かれた子楚が酒宴の席で容姿絶佳で舞いの上手な女性を見そめ、呂不韋に貰い受けたいと請うた。
 呂不韋はこの時すでに女性が妊娠している事を知っており、激怒して難色を示したが子楚の求めに応じて女性を献じた。
 女性は妊娠を隠し通し十二ヶ月後に政を生んだとある。史記を著した司馬遷は始皇帝出生の矛盾を記載し後世の歴史家を悩ませている。
 始皇帝の父、子楚は秦の皇太子安国君(あんこくくん)の庶子とは云え、兄弟が二十余人もおり大勢の側室の子の一人に過ぎなかった。庶子の中でも軽んぜられていたのであろう、趙に人質に出されていた。
 子楚は人質として趙の都、邯鄲で暮らしていたが秦が度々、趙を攻める為、子楚は冷遇され十分な手当ても支給されず、賢人と交わる費用にも事欠いていた。
 大商人であった呂不韋が商用で邯鄲を訪れた時、偶然、子楚と出会った。呂不韋は掘り出し物を見つけたと喜び、翌日子楚の住まいを訪ねた。
 そして呂不韋は子楚に語った。秦の皇太子安国君は正室の華陽(かよう)夫人を寵愛しておられるが、華陽夫人にはお子がいない。
 華陽夫人が貴方を養子に迎え入れれば自ずから安国君の嫡嗣(あとつぎ)となり、遠からず安国君が秦王となった時、貴方は皇太子になられます。そして、行く末は秦国の王になる。貴方はその様な将来を望みませんか、私が手助けして貴方を必ずや秦王にして見せます。
 子楚も大言壮語する呂不韋にもしその様な事が叶うなら秦国の半分を差し上げると応じた。
 こうして子楚は大商人の呂不韋に巡り会って運命が変わっていった。呂不韋も子楚に出会って野望を抱き、秦の公子子楚に賭け、大金を惜しみなく散じた。
 子楚に大金を与え天下諸侯の賓客と交わりを持たせて子楚の名を高め、自らは珍奇な品物を買い入れて秦に赴いた。
 秦に着いた呂不韋は華陽夫人の姉に会うべく礼金を弾み八方手を尽してつて伝を捜し求めた。礼金が効を奏し、華陽夫人の姉に会う機会を得、持参した品の全てを献上した。
 そして、呂不韋は夫人の姉に趙に人質に出されている子楚がいかに賢明な公子であるかを縷々述べ、姉から華陽夫人に子楚を養子に迎え入れるよう説かせた。
 この様にして呂不韋の計らいで庶子の子楚は秦の皇太子、安国君の嫡嗣となった。又、秦の昭襄王(しょうじょうおう)が趙に軍勢を差し向け邯鄲を包囲した時も、呂不韋は子楚を監視する役人に黄金をばら撒いて買収し子楚を救出して秦に逃した。
 秦の昭襄王が没し、安国君(孝文王)が即位して華陽夫人が王后となった。呂不韋の思惑通り子楚は孝文王(こうぶんおう)の皇太子となった。趙は秦に敬意をはらい子楚の妻子を秦に送り帰した。
 孝文王は即位一年で没し、子楚が即位して荘襄王となった。最大の功労者、呂不韋は秦の丞相(大臣)となり、文信候に封じられ十万戸の地を所領として与えられた。
 荘襄王は即位してわずか三年後の紀元前二四七年に没し、十三歳の太子政が秦王に即位した。この時、呂不韋は相国(秦の時代に設けられた官位で宰相、首相)となり、秦王政は呂不韋を尊んで仲父(ちゅうほ、父につぐ人)と呼んだ。呂不韋は年少の政に替わって秦国の実権を握り政治を専断した。
 そして、呂不韋は政の母、太后と密かに私通していた。政が年頃に達しても太后の多情は止まず、政は太后と呂不韋の関係を薄々知っていた。
 呂不韋は太后との関係が露見し、禍いが及ぶ事を恐れ、一刻も早く太后との関係を断ち切ろうと思った。そして、肉体の愛欲を求めて悶える太后に相応しい人物を捜し求めた。
 呂不韋は男根が大きいとの噂がある?(ろう)アイ(アイは辞典に無い字)を思い出して舎人(けらい)にし、太后の耳に入るように時々、大勢の人を招いて酒宴を開き、馬鹿騒ぎの余興として?アイの男根に桐の輪を付けて歩かせた。
 ?アイの男根の噂は呂不韋の思惑通り、たちまち太后の耳に入った。噂を聞きつけた太后は呂不韋の予想通り?アイを譲り受けたいと申し出て来た。そこで呂不韋は?アイを宦官と偽って後宮に上げた。
 太后は?アイを寵愛し乱行を重ね、密通して?アイとの間に二人の子をもうけた。そして、後宮の決裁はすべて?アイが取り仕切るほどの権力を握った。
 太后を後ろ盾に?アイは巨大な男根一つで破格の待遇を受け長信候に封ぜられ、召使は数千人に及び、仕官を求めて?アイの舎人になった者が千余人もいた。
 始皇九年、何者かの密告があった。「?アイは宦官ではなく太后との間に生まれた子を王にしようと企んでいる。」政は詳しく密告の内容を調べさせた。
 ?アイも司直の手が及んだ事を知り、露見すれば死刑を免れずよう雍に赴いて太后のいんじ印璽を盗み、兵を徴収して叛乱を起こした。
 叛乱はすぐに鎮圧されたが?アイは逃走した。秦王政は?アイの首に懸賞金を掛け、四方に探索の兵を繰り出した。探索の兵は懸賞金を目当てに血眼になって?アイを探し出し斬り殺した。そして、?アイの死体は秦王のもとに届けられた。
 政は?アイの死体をさらしものにした上、見せしめとして死体をくるまざき車裂の刑に処した。乱に加わった者も同じ様に車裂の刑に処し、?アイの三族(父母、兄弟、妻子、孫、父の族、母の族、妻の族)は皆殺しにされた。そして政は太后が生んだ二人の子を探し出して殺し、太后を雍(よう、秦の故都、陝西省)に遷した。
 呂不韋は?アイの叛乱に連座し誅殺を免れたが罷免(ひめん)された。権勢を剥がれ、封領を召し上げられた呂不韋はいずれ誅殺されるであろうと思い酖毒(ちんどく、鴆(ちん)という毒鳥の羽にある猛毒)を呷(あお)って死んだ。
 その後、親政を取り戻した秦王政は度々、出兵して隣国を攻めた。韓も秦に攻められ韓王は韓非子(かんぴし)を秦に赴かせて不戦を説かせた。
 秦王政は韓非子の書を読んでおり、賓客として長く秦に留めようと思った。しかし、李斯(りし)は韓非子の才能を知っており秦に留めると自分達の地位が危うくなる事を恐れ、長く留めて韓に帰せば禍を残す事になると秦王政を説いた。
 秦王政は李斯の言を入れて韓非子を捕らえ、李斯は獄中の韓非子に毒を届けた。韓非子は届けられた毒をあお呷り非業の死を遂げた。
 秦は韓を滅ぼし、趙を攻めた。秦が強大となり趙と度々交戦していた燕は秦に人質として太子の丹を差し出した。
 燕の太子丹(たん)は趙の人質であった頃、趙で生まれた秦王政と幼馴染であった。政が秦王になると燕王は人質として幼馴染の丹を秦に赴かせた。
 丹は幼馴染でもあり、政と親しく話をして不戦の約を期待したが、丹の思いに反し秦王となった政は私情を交えず冷淡な処遇しかしなかった。
 丹は冷遇を怒り政に恨みを抱いて燕に逃げ帰った。以来、何時の日か恨みを晴らしたいと思い続けていた。
 秦が趙を平定し燕は秦と境を接した。秦と燕が両立しない事は自明の理であった。秦軍がえきすい易水を渡れば燕国は長くは持たない情勢となった。燕は頼るべき国も無く危急存亡の時を迎えたが戦いに利あらず。
 丹は国を救う為に秦王政に刺客を放っ以外にないと思い、養っていた壮士二十人の中から荊軻(けいか)を刺客に選んだ。
 荊軻は長年の恩に報いる時が来たと悟り、丹の求めに応じて鋭利な匕首(あいくち)を捜し求め、刃に毒を染みこませて秦に赴く事となった。
 一国の存亡を荊軻に托した太子丹と事情を知る少数の人々は白い喪服(葬送の折の正装)を着用して易水の辺りまで見送り、太子丹は別れの宴を催した。
 いよいよ別れの時となり、不帰の覚悟で秦に赴く荊軻は悲哀に満ちた声で惜別の歌を歌い車に乗って去って行った。

    風蕭々(しょうしょう)として易水寒し
    壮士ひとたび去ってまた還らず

 荊軻は秦に着くと督亢(とくこう)の地を秦に献上すると偽り、秦王政に謁見を願い出た。政は燕が督亢の地を献上すると聞き喜んで使者の荊軻を咸陽宮(かんようきゅう)で引見した。
 荊軻は筒に入れた地図を取り出し、秦王政が地図を開くと最後に匕首が現れた。荊軻は素早く秦王政の袖口を掴み、匕首を握りしめて政に斬り付けたが、政も素早く身をかわし、荊軻の匕首は政の体にはとどかず衣の袖を切り落としただけであった。
 荊軻は二度、三度と斬りつけたが届かず、政は逃げながら剣を抜いて荊軻に撃ち掛り、左右の者が荊軻を取り押さえた。
 刺客として送りこまれた荊軻は暗殺に失敗し、秦王政は荊軻を見せしめとして体解(たいかい)の刑(体をばらばらにする刑)に処し、燕に兵を発した。こうして燕は亡び、斉、楚、も滅ぼされ、六国を撃ち滅ぼした秦王政が中国史上初めて統一国家を樹立した。
 秦王政は自ら皇帝と称し、後世は二世皇帝、三世皇帝と代数を重ねよと命じた。この事から秦王政は始皇帝と呼ばれるようになった。又、王命を「制」(勅命)と称し、王令を「詔」(詔勅)と称し、天子は「朕」と自称したのも始皇帝が最初である。
 始皇帝は封建主義を改め、広大な領地を統治するために法家主義(ほうか、何事も法律によって対処する)を貫き、世襲を廃止して中央集権による官僚制を敷いた。
 天下を分けて三十六郡とし郡の下に県を置いた。中央から郡ごとに守(行政長官)、尉(軍事を司る武官)、監(監察官)を派遣し、県には県令を任命して国を治めた。
 そして、李斯の言を入れて度量衡、貨幣、文字と書体を小篆(しょうてん)に統一し思想統一を目的に儒家を弾圧し、有名な諸子百家の書を焼き捨て儒家を坑(あな)に埋める焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)を行なった。(戦国時代は各国で文字が異なり秦では大篆が使用されていた。始皇帝は李斯の言を入れ、複雑な大篆を簡略化した小篆を文字の基本とした。小篆の文字は現在では印鑑の文字として使われている。度量衡を最初に統一したのは始皇帝で、度とは長さ、量とは体積、衡とは質量を意味する。)
 李斯の政治批判を防ぐ目的で行なわれた焚書坑儒に疑問を感じた皇太子の扶蘇(ふそ)は勇を鼓して皇帝を諫めたが逆に怒りに触れ、北方を守る蒙恬(もうてん)を監督するという名目で退けられた。
 天下を平定した始皇帝は度々、地方を巡遊し泰山(中国五大名山の第一にランクされる霊山で道教の聖地でもある。)にも赴き碑を刻んだ。
始皇三十七年十月、始皇帝は公子の胡亥(こがい)、丞相の李斯、宦官の趙高(ちょうこう)を伴い東方へ巡遊に出発した。およそ一年にわたり各地を巡り、巡遊の帰途、平原津(へいげんし、山東省)に至って病に罹った。
 死を覚悟した皇帝は北方を守る蒙恬の下に退けていた皇太子の扶蘇に璽書(じしょ、天子の御璽を押した親書)を賜った。璽書には「喪を発すると同時に咸陽(かんよう)に帰ってきて葬儀にあたれ」とあった。
 しかし璽書が使者に渡される前に皇帝は沙丘(さきゅう、河北省)で崩御した。宦官の趙高と丞相の李斯は皇帝の崩御が知れると諸公子の間、及び天下に変乱が起こる事を怖れ、咸陽に帰り着くまで皇帝の崩御を伏せた。
 夏の暑い最中、遺体は腐乱し異臭が漂いはじめると趙高は塩魚を買い集めて腐臭をごまかし、咸陽に至ってはじめて始皇帝の喪を発した。
 皇帝が記した璽書は扶蘇に届けられず宦官の趙高によって破り捨てられた。趙高も李斯も英明な扶蘇が皇位に就くと自らの地位が危うい事を承知していた。それ故、趙高と丞相の李斯は語らい、胡亥を立てて太子とするとの遺勅を受取ったと詐(いつわ)り、胡亥を立てて皇太子とし、胡亥が位を継いで二世皇帝となった。
 そして、英明な扶蘇と蒙将の蒙恬を怖れた趙高は改めて璽書を偽造し、偽りの罪過を責め扶蘇と蒙恬に自刃を命じた。
 趙高の奸策(かんさく)に加担した李斯も二年後、謀反の罪を着せられ、拷問の末に自白を強要され、咸陽の市で五刑(鼻、耳、舌、足を切り、笞(むち)うってから腰斬(ようざん))に処せられた。
 こうして胡亥が二世皇帝となったが趙高の専横甚だしく、皇帝もまた趙高にへつらい、政治は乱れ過酷な法を布令し、人民は酷税に苦しんだ。
 始皇帝が薨去した翌年の紀元前二〇九年七月、一介の兵卒であった陳勝(ちんしょう)と呉広(ごこう)が叛乱を引き起こした。陳勝と呉広は徴発された九百人の兵卒を率いて漁陽(ぎょよう、北京の北方)の守備に向った。
 漁陽は陳勝達の町からおよそ一千キロ離れていた。途中、大沢郷(だいたくきょう、安徽(あんき)省)に宿営した時、大雨に遭い期日に間に合わない事が確実となった。秦の法では期日に到着しない軍は斬罪に処せられる決まりであった。
 逃亡しても殺される窮地に陥(おちい)った陳勝は呉広と相談し、大計を巡らして太子扶蘇を擁立して楚の将軍項燕(こうえん)が決起したと偽って、扶蘇、項燕を自称し秦に叛いた。叛乱軍は瞬く間に数万に膨れ上がり、数日で陳を落し、陳勝は即位して陳王となった。
 この反乱を切っ掛けとして各地で叛乱が起こったが、秦の官僚は自身の地位が危うくなるのを恐れ、盗賊の一団ですぐに鎮圧されるでしょうと報告した。しかし、叛乱はますます拡大し、各地で決起した叛乱軍は郡県の長官を殺し戦国七雄の末裔を担ぎ出して自立し、瞬く間に戦国の世と同じ様に斉、楚、燕、韓、魏、趙、が自立し戦乱の世となった。
 楚の項梁(こうりょう、項羽の叔父、項燕の子)も挙兵して楚王を擁立し秦に反旗を翻した。後に、垓下(がいか)で決戦する項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)の両雄も共に項梁に従っていた。
 趙高は事の重大さに気付いたが時すでに遅く、秦の主力軍の大半は北方守備に派遣され、都の咸陽には数万の守備兵しか駐留していなかった。この兵力も小部隊に細分化されて叛乱軍の鎮圧に向かったがいずれも援軍を要請して来た。
 その時、文官であった章邯(しょうかん)は?山の囚人を兵として徴発し武器を持たせば二十万の軍を組織出来ると進言した。趙高は他に方策も無く章邯を将軍に任命して叛乱軍の鎮圧に当らせた。
 こうして集められた章邯の軍は囚人の寄せ集めであるが暦(れっき)とした正規軍であり、章邯の軍が向かえば叛乱軍は四散し、勝てば士気も上がり章邯の軍は破竹の勢いで叛乱軍を鎮め、陳勝も王位に有る事、六ヶ月で章邯に滅ぼされた。
 楚の項梁も各地で叛乱軍を吸収し、自らは戦国時代、秦が強勢であった頃、秦に対抗して合従(がっしょう)した四賢人、斉の孟嘗君(もうしょうくん)、趙の平原君(へいげんくん)、楚の春申君(しゅんしんくん)、魏の信陵君(しんりょうくん)にあやかり武信君(ぶしんくん)と号し、驕慢(きょうまん)になっていた。
 章邯は全兵力を結集して項梁を攻め、定陶(ていとう)で楚軍を破り、項梁は戦死した。項梁が秦の将軍章邯に敗れたと知った楚の懐王は秦を恐れて彭城に退き諸将を集めて「先んじて関中に入った者をその地の王にする」と盟約し、征西の総帥に劉邦を選び、項羽には北方の趙救援を命じた。
 項羽は趙軍を包囲していた秦軍を三日で破り、秦の将軍、章邯と対峙した。章邯は秦を救いうる唯一の将軍であったが、趙高は章邯が戦功を重ねる度に嫉妬し、章邯が使者を送っても会おうとせず、敗れると罪を問う姿勢を崩さなかった。
 項羽からも「貴方はいくら戦功を上げてもいずれ趙高によって誅殺される。なぜ、矛先を転じて諸侯と連合し共に秦を攻めて王となる道を選ばないのか」と投降を促す文書が届けられた。章邯は思い悩んだ末、誰の為に戦っているのかと慨嘆し項羽に降った。
 項羽は投降した章邯の秦軍二十万を加え、六十万の兵力を率いて一路、函谷関を目指した。関中を目前にして項羽は秦軍が叛乱を起こすのではないかと疑い、夜襲を掛けて秦軍二十余万人を?(あなうめ)にした。
 項羽よりも一足速く、劉邦の軍が関中に迫っていた。趙高は関中に迫った劉邦と結んで秦王室の転覆を目論んでいた。皇帝の胡亥を自殺に追い込み、始皇帝の孫、子嬰(しえい、扶蘇の子)を皇帝と称さず秦王に立てた。
 しかし、子嬰は趙高が秦王室を滅ぼし、楚と結んで関中の王たらんと策謀しているのではないかと疑い、病気と称して趙高の使者を追い返した。趙高は子嬰が待ち構えているとも知らず自ら赴き、子嬰に刺殺された。
 それから四十六日後、劉邦の軍が秦軍を破って武関に入り子嬰に降伏を促した。子嬰は頸に縄を掛けて降った。
 それから一月余り経って合従の長、項羽が咸陽(かんよう)に入り、子嬰及び秦の一族を皆殺しにして咸陽に火を放った。秦帝国はあっけなく三世十六年で滅んだ。
 その後、楚の項羽と漢の劉邦の二強の争いとなり、二人は数ヶ月に亘り広武山(こうぶさん)で対峙した。劉邦は背後に秦の膨大な穀倉を手に入れ、持久戦は望む所であった。一方の項羽は後方をかくらん攪乱されて補給路を断たれ食に窮していた。
 項羽は雌雄を決しようと盛んに劉邦を挑発しが、劉邦は項羽を畏怖し戦端を開かなかった。互いに砦を築き対陣は数ヶ月に及んだ。
 勇猛な項羽の軍は長引く対陣で食に窮し士気も萎えていたが、それでも父母、妻子を人質に取られていた劉邦は戦端を開かなかった。
 それどころか劉邦は項羽の兵が食に窮し疲弊しているのを好機と見て、天下を二分する計を項羽に示し和議を申し入れた。
 食料が尽き兵の士気も萎えていたが項羽はなを強気であった。項羽の示した和議の条件は鴻溝(こうこう)より西の地を漢とし、鴻溝より東の地を楚とする提案であった。
 劉邦を蜀、漢の地に閉じ込め項羽が大半の地を得る条件であった。それでも劉邦は和議を受け入れ、項羽は劉邦の父母、妻子を送り返した。
 盟約が成り、項羽は戦闘態勢を解いて東に去った。劉邦も西に去ろうとしたが、軍師の張良と陳平は項羽の軍の兵は疲れ食料も乏しく、今、楚を討つ絶好の機会であると進言した。
 劉邦は二人の言を入れて乾坤一擲(けんこんいってき)、畏怖していた項羽を追撃した。(乾坤とは天と地の事、一擲とは一度に全てをなげうつ事。転じて運を天に任せて思い切った行動をとる事。)
唐の詩人、韓愈(かんゆ)はこの時の情景を想像し「鴻江(こうこ)を過(よ)ぐ」と題した詩で次の様に詠っている。(乾坤一擲の成語はこの詩から)

      竜疲れ虎困(くる)しみて川原(せんげん)を割(さ)く   
      億万の蒼生(そうせい) 性命(せいめい)存す
      誰か君王に勧めて馬首を回(かえ)さしむ
      真成(しんせい)に一擲 乾坤を賭す

 四年に及ぶ漢、楚の戦いで竜(劉邦)は疲れ、虎(項羽)は苦しんで、両者は天下を二分し鴻江を境に西を漢、東を楚と盟約した。(川原とは鴻江の事、)
 戦いは収まり、億万の民の命は保たれるはずであった。(蒼生とは人民の事)
ところが、張良と陳平は馬首を回らして項羽を追撃する事を勧めた。劉邦は意を決して乾坤一擲の勝負に賭けた。(真成、まこと、ほんとう)
 諸侯の軍が加わり劉邦は三十万の軍勢で項羽と垓下(がいか、長江の北、徐州近辺)で対峙した。項羽は十万の兵力しかなく塁壁を築いて防いだが、劉邦は大軍を利して幾重にも楚軍を囲んだ。そして夜になると兵に命じて一斉に楚の歌を歌わせた。
 四面楚歌に囲まれた楚の項羽は命運の尽きた事を悟り、将士と共に最後の酒宴を開いた。項羽はぐ虞美人を横に侍らせ何度も盃を干し、楚歌の音律で激しくもかつ哀しみを込めて歌った。

      力は山を抜き 気は世を蓋(おほ)ふ 
      時に利あらずして 
      騅(すい)逝(ゆ)かず   (項羽が常に騎乗していた騅という名の駿馬)
      騅逝かざるを奈何(いかん)すべき
      虞や虞や若(なんじ)を奈何せん

と繰り返し歌うこと数回、虞美人も歌に合わせて舞い、舞いつつ唱和した。虞美人が舞い終わると項羽は剣を抜き虞美人を一刀で斬り下げた。項羽は数行の涙を流したと史記に記されている。
 項羽は直ちに騅に跨(また)がり、従う兵八百余騎と共に夜をついて敵の包囲を破り、南に走った。夜が明け、漢軍はこれを知り、五千の騎兵に追跡を命じた。
項羽が淮水(わいすい)を渡った時には従う兵百余騎になっていた。項羽が東城に至った時には従う兵は二八騎になっていた。
 漢軍は幾重にも項羽を包囲した。もはや脱出できないと判断したがそれでもなを戦いを止めなかった。項羽は二八騎を従えて敢然と漢軍の包囲網に馳せ下った。
漢軍は項羽の勢いに恐れをなして退き、項羽は包囲を突破して揚子江の渡河地烏江(うこう)に至った。従う兵は二六騎であった。
 烏江の亭長(ていちょう、宿駅の長)は漢軍が追い着く前に船を出すと項羽を急がせたが、項羽は船に乗らなかった。討ち死にを覚悟した項羽は騅を殺すに忍びないと亭長に与え、従騎も馬をおりて追撃してきた漢軍と戦った。
 項羽は一人で漢兵数百人を殺し、自身も身に十余創を被った。振り返ると旧知の漢兵がいた。項羽はお前に恩徳を施してやろうと告げ、自ら頸(くび)を刎(は)ねた。項羽の死は紀元前二〇二年、時に三十一歳であった。
 この時、劉邦は四十五歳であった。劉邦は沛(はい)の農民の二男に生まれ、学問を好まず家を修めず、酒と色を好み、遊侠の徒と親交を結び、驥山に送る囚人を護送する任に就いた事も有った。
 前二〇九年七月、陳勝と呉広が叛乱を起こしたと知り、劉邦も遊侠の徒を集めて決起し、沛の県令を追い出して沛公と号した。劉邦、三十八歳の時であった。それから苦節七年で劉邦は天下の覇者となった。

 車窓から左手に聳え立つ驥山を眺めていると右手の道路脇にぽつぽつと露店が見え始めた。次第に露店の数が増え秦始皇帝陵に近付いた頃には道路脇にテントを広げた露店がびっしりと連なっていた。
 西安は柿と石榴(ざくろ)が有名だとガイドが話していたが大半の露店は柿と野菜を売る店であった。柿は日本で見る渋抜きをした細長い柿を小さくした感じで枇杷(びわ)の実より少し大きく、竹籠に詰められた柿は紅く色づいていた。
 食べてみたいと思い露店の店先を見ると三十〜四十個を竹籠に入れて販売していた。西安の柿はかなり有名なのか多数の中国人観光客が柿の入った竹籠をぶら下げて歩いていた。
 兵馬俑坑は一九七四年、旱魃(かんばつ)が続き困り果てた近くの農民が農業用水を汲み上げる為に井戸を掘った。
 三〜四メートル掘り進んだところで陶器のカケラが出てきた。農民は始皇帝陵に近く宝の壺が有るかも知れぬと慎重に掘り進めると巨大な陶製の人形が出土した。
 農民は県の役人に連絡し、現物を見た役人は省の文物管理処に仔細を話し、省の専門家が現場に駆け付け、現物を見て驚いた。仔細に調べたところ敷瓦に「秦」の文字を見つけて大騒ぎになった。
 最初、一千平方メートルの試掘を試みたところ、驚くべき事に五百三十体もの武人のとうよう陶俑と二十四頭の陶馬が現れた。
 訪れた一号坑は最初に発掘した現場である。大きな体育館のようなドームに覆われ今も発掘が進められている。
 一九八四年の時点で発掘されたのは陶俑一千余体、陶馬三十二頭、兵車八台、各種の青銅製武器一万点と報告されている。
 陶俑の平均身長は約一・八メートル。陶俑は生きている兵卒を写し取った如く、甲冑(かっちゅう)を身に纏った兵士は一体づつ容貌も姿形も異なり、実物の槍や剣(武器は陶俑から外されているが手の形から見て武器を携帯していたと思われる)を携え整然と隊列を組んでいた。
 陶馬もまるで生きているが如く、四頭並んだ陶馬は兵車を曳いていたのであろうか陶馬の後ろに二人の御者と思われる陶俑が有り、その後ろに兵卒が隊列を組んでいた。
 陶俑は一体づつ顔の表情が異なり、身分の違いであろうか服装も異なっていた。ガイドの職さんは陶俑の背格好、あご顎の形で部族の違いが解かると話していた。
 陶俑の兵士の表情は生き生きとしておりまるで今にも動き出しそうな生きている兵士のようであった。
 一体ずつ表情が異なるところを見ると、数多くの陶工が集められ兵士の一人一人をモデルにして粘土をこ捏ね、形を整えたのであろうか。入念に兵士を写し取った陶俑にただただ、驚きを感じた。
 それにしてもこの様に大きな陶俑をどの様にして製作したのであろうか、そしてまた、秦の時代にすでにこれだけの技術が有った事に驚かされる。いずれ、近い将来、ほぼ等身大の陶俑を焼き固めた巨大な釜跡も発見されるであろう。
 次に案内された三号坑には発掘現場が有り、復元を待つ大きな陶片が散乱し、表土を除いた発掘現場には陶俑が折り重なるように埋没していた。
 陶俑一体の重量は約三百キロ、相当の重量が有る大きな破片を一片、一片拾い集め、別の場所で復元すると元の位置に戻すのが困難なため現地で復元しているとの事。復元作業は容易ではないと感じた。
 いったいどれほどの陶俑が出土するのか、また復元にどれほどの歳月が掛るのか(一説には百年は掛ると云われている。)想像を絶する時間と労力を要する大作業で有る事は確かである。
 一号坑には復元した数百体の陶俑を発掘した現場に、埋められた当時と同じ様に隊列を組んで展示してあるが、二、三号坑では発掘し、復元した陶俑の保存方法がまだ確立されていない為、再び埋め戻している。
 陶俑、陶馬の総計は七千体以上と推定されているが確かな事は解からない。春秋戦国時代、一国の王が率いた軍勢は六軍、一軍の軍勢一万二千五百人、六軍の総数は七万五千人であった。
 陵墓に埋められた陶俑は始皇帝陵を背に東を向いて今にも進軍しそうな戦闘隊形をとっている。多分、始皇帝陵を守る一軍の陶俑を並べたと思えてならない。
 なを、始皇帝陵の調査は中国政府によって一九六二年から始められているが墳丘そのものにはまだ手を付けていない。
 墳丘を発掘し全容が明らかとなれば史記に記されている如く、地下宮殿には望楼が有り、百官の席があり、奇器、奇物が充満し、天には玉石で日月、星宿を形作り、地には絶えず水銀が循環する仕掛けを施した百川、江河、大海が現れるであろうか。非常に興味をそそられる。
 博物館の敷地内に有る土産物店に入ると大勢の人だかりであった。覗(のぞ)いて見ると車椅子に座った一人の老人に博物館の写真集を差出しサインを求める人だかりであった。
 ガイドに尋ねるとあの老人が兵馬俑坑の発見者で、世界的な大発見で一躍有名人になった。この店で写真集を購入しあの老人に差出せばサインをしてくれるとの事であった。
 二号坑を見学したが二号坑の発掘現場には一号坑の様に復元した陶俑は並べられていなかった。復元した陶俑は全て埋め戻しているとの事。
 しかし、大きなガラスケースに完全な形の陶俑が納められていた。それは、一号坑で見た歩兵とは異なり、将軍と文官、それに戦いのポーズを取った武者の陶俑がガラスケースに納められていた。
 近付いてガラスケース越しに見たが表情は生き生きとして今にも動き出しそうな躍動感に溢れていた。
 人込みの中、ガラスケースの陶俑に見入って写真を撮っていると、後ろから突付かれる感触を覚え振り向くと慌てて逃げ去る人の気配、はっと気付いて肩からぶら下げていたバッグを見るとファスナーが空いていた。
 博物館に入る折、ガイドから「写真を撮るのに気を取られているとスリに狙われますよ、特に肩から下げたバック、ズボンの後ろポケットに入れた財布には気を付けて下さい。特に薄暗い人込みの中はスリが多く、くれぐれもスリにご用心。」との注意があり念の為、バッグに入れていた財布をポケットに移し替えたのが効を奏し、財布は無事であった。

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