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華 清 池
 

 
 兵馬俑坑博物館の見学を終えてバスは華清池(かせいち)に向かった。華清池は西安から東に三十キロ、?山(りざん)の北麓に有り、?山の中腹から温泉が湧き出し古くからの温泉地である。
 華清池は歴代の帝王が享楽に耽った所でもある。西周時代末期の周の幽王もこの温泉地に?宮を造営し傾国の美女、褒似(ほうじ)を伴なって酒宴を催した。
 幽王が殺され褒似が囚われたのは史記に拠ると?山の麓と記されており、華清池で享楽にふけ耽っていた所を襲われたのであろうか。
 秦の始皇帝もこの温泉に入ったと伝えられている。唐の玄宗皇帝がこの温泉地に華清宮を造営し離宮としたのは七四七年である。
 清末、義和団の乱を切っ掛けに列国と戦争状態になり(北清事変)、連合軍に北京を占領された光緒帝と西大后が北京を脱出し西安に難を避け、一時この地を行宮とした事も有った。
 そして、西安事件の舞台となった所でもある。西安事件とは蒋介石が西安に駐屯する張学良(ちょうがくりょう、張作霖(ちょうさくりん)の長男)に中国共産党と戦うべきであると説得する為にわざわざ南京から西安の?山温泉に赴いた。
 しかし、張学良は逆に共産党排除にこだわる蒋介石を説いて、国民党と共産党の内戦を停止し、国共が力を合わせて日本軍と戦うべきであると主張して譲らなかった。
 両者の意見は対立し張学良は一九三六年一二月未明、?山温泉を包囲した。包囲に気付いた蒋介石は寝巻きのまま脱出し?山に逃れ、岩穴に潜んでいたが捕らえられ華清池に軟禁された。
 蒋介石を拘束した張学良は延安(えんあん)に拠る毛沢東に電報を打った。毛沢東は直ちに周恩来を?山に赴かせた。周恩来は挙国一致の抗日政策に転換するよう蒋介石を説得し、数度の交渉の末、蒋介石は周恩来の意見を呑むことで釈放された。
 翌年の一九三七年七月、蘆溝橋(ろきょうきょう)事件(日本軍の演習中、何者かが発砲したのを切っ掛けに日中戦争が勃発した)を契機に内戦を停止し、国民党と共産党による抗日民族統一戦線が結成された。
 蒋介石が潜んでいた?山中腹の岩穴に新中国は記念として石造りの建物を造り「兵諌亭」と名付けた。当時、蒋介石が起居していたと云われる華清池の五間庁の建物には当時の弾痕の跡が残っていた。
 華清池は今も庶民や旅行者の温泉地である。湯元が四ヶ所あり、摂氏四十三度の温泉が今も豊富に湧き出しているとの事。
 中国政府は唐の太宗皇帝の星辰(せいしん)湯、玄宗皇帝の蓮花(れんか)湯、楊貴妃の海棠(かいどう)湯、等々の古代浴場遺跡を発掘し、その地に古典的な建物を建て、玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスの地として観光の名所に仕立て上げた。
 園内に入ると古典的な建物が建ち並び恰(あたか)もテーマパークのようであった。九竜池の辺(ほとり)には玄宗皇帝と楊貴妃が九竜池に流れ込む温泉の湯煙を見て楽しんだと伝えられる飛霜殿が有った。露台に立って九竜池を眺めると池の辺に雰囲気にそぐわない白大理石の楊貴妃の像が据えられていた。
 玄宗皇帝と楊貴妃も同じ景色を眺めたのか、?山の濃い緑を借景に池に面して朱塗りの柱に黒い甍の湯殿や楼閣、東屋が点在し、池の廻りには風情を誘う枝垂(しだ)れ柳が植えられ古代ロマンの地を再現していた。
 ガイドの職さんの案内で池に面して点在する朱塗りの建物を巡った。楊貴妃のために造られた蓮花湯は規模が大きく、まるでプールの様な大きな浴槽は大理石で造られ、魚、竜、雁、蓮の花などが彫刻されていた。
 職さんの説明によると、華清宮には白大理石で造営した大小十八の浴場が有り、特に蓮花湯の白い玉石に彫刻された蓮の花は温泉の湯の中で、まるで芙蓉の花が水面に咲いているようであったと伝えられているとの事。
 唐代の詩人、白居易(はくきょい、白楽天、七七二〜八四六年)は有名な長編詩、「長恨歌(ちょうごんか)」で「春寒くして浴を賜う華清の池 温泉の水滑らかに凝脂を洗う」と謳った。
 楊貴妃は入浴してから、飛霞閣に上がって、髪を風になびかせて乾かした。玄宗はその姿を惚れ惚れとして眺めていたと伝えられている。
 
 楊貴妃を寵愛した玄宗皇帝(六八五〜七六二年)は二十八歳の時、唐の六代皇帝に即位した。玄宗皇帝は官制を改革し外征を抑制して民の生活を安定させ、後世、「開元の治」と称せられる善政を布いた名君であった。
 他方、玄宗皇帝は後宮に三千人と伝えられるほど好色で五十九人余りの子がいたと伝えられている。特に武恵妃を寵愛し皇太子(後の肅宗(しゅくそう))を廃して武恵妃との間に生まれた皇子、寿王を皇太子に立てようとした。この頃から玄宗の政治も乱れ始めた。
 玄宗が寵愛した武恵妃は四十歳の若さで突然亡くなった。玄宗はよほど武恵妃を愛していたのか後宮三千人と伝えられる女人の誰一人も近付けなかった。
 この様な折、唐の開元二十八年(七四〇年)十月、楊貴妃(七一八〜七五六年)が二十二歳の時、華清宮で偶然、玄宗皇帝の眼にとまった。
 玄宗皇帝は一目見て武恵妃に似た容姿秀麗な楊玉環に魅せられた。玄宗皇帝、五十六歳の時であった。
 玄宗皇帝が寵愛した楊貴妃(楊玉環)は七一八年、蜀州の官吏楊玄炎の娘として生まれた。美人の誉れ高く十六歳の時、選ばれて宮殿に入り武恵妃の皇子、寿王の妃となった。
 寿王の妃として六年の歳月が過ぎた二十二歳の時、玄宗皇帝が毎年、冬から春に掛けて訪れる華清宮で偶然、玄宗皇帝の眼にとまった。
 しかし、楊玉環は息子の妃であり直ぐには手が出せなかった。一計を案じた玄宗皇帝は楊玉環を道教の寺院に入れて寿王と離婚させた。
 女冠となった楊玉環は名を楊太真と号した。玄宗皇帝は五年の時を待ち、楊太真を後宮に迎え入れて貴妃(皇后に次ぐ妃)とした。玄宗皇帝は美人で聡明、その上、歌舞に長じた楊貴妃の虜となり、日夜酒宴に明け暮れた。
 毎年冬から春にかけて玄宗皇帝は楊貴妃を伴って華清宮を訪れ、朝政を忘れて温泉と酒宴の日々を楽しんだ。
 楊貴妃が望む事なら千里の道も遠しとせず、楊貴妃の好物であったライチ茘枝を長安から何千キロも離れた南方の広東地方に早馬を仕立てて取り寄せた。
 そして、楊氏一族も皇帝の寵愛を一身に集める楊貴妃を後ろ盾に高位高官に上り、楊国忠は宰相にまで登りつめ、専横をほしいままにして反感を招く事となった。
 白居易(白楽天)は二人のロマンスの顛末を七言、百二十句からなる長篇詩「長恨歌」で次ぎの様に詠じている。

漢皇(かんこう)色を重んじて傾国(けいこく)を思ふ
      漢の帝(玄宗皇帝)は美人を重視し政治を忘れてしまうような絶世の美
      人(傾国)を得たいと思っておられたが、
御宇(ぎょう)多年求むれども得(え)ず 
      天下をお治め(御宇)になっている長年の間、探し求めておられたが、な
      かなか見つからなかった。
楊家(ようか)に女(むすめ)有り初めて長成(ちょうせい)し
      楊家の一人娘はちょうど年頃に成長していたが、
養(やしな)はれて深閨(しんけい)に在り人未(いま)だ識(し)らず
      深窓(深閨)に育てられ誰もその存在を知らなかった。
天生(てんせい)の麗質(れいしつ)自(おのずか)ら棄(す)て難(がた)く
      その美しさは天がわざわざ造ったのかと思うほどの麗しさで、そのまま
      打てられておかれるものではなく、
一朝(いっちょう)選(えら)ばれて君王(くんのう)の側(かたわら)に在(あ)り
      ある日、選ばれて、天子のお側に出て拝謁する事になった。
眸(ひとみ)を廻(めぐら)して一笑(いっしょう)すれば百媚(ひゃくび)生じ
      この娘の美しさは格別で、眸を動かして一たびにっこり微笑むと、なまめ
      かしさがあふれて、
六宮(りくきゅう)の粉黛(ふんたい)顔色無し
      美しく化粧をこらした後宮の大勢の美女達も、その美しさに顔色を失う
      ほどであった。
春寒くして浴を賜(たま)ふ華清の池(ち)
      春なお寒いある日、天子は華清宮の温泉で入浴することを許された。
温泉水滑(おんせんみずなめら)かにして凝脂(ぎょうし)を洗(あら)ふ
      温泉の水は滑らかで、白くつややかな肌(凝脂)に注ぐ。
侍児(じじ)扶(たす)け起こすに嬌(きょう)として力無し
      侍女(侍児)が抱え上げると、なよなよとしてなまめかしく(嬌)、力が感ら
      れないほどであった。
始(はじ)めて是(こ)れ新(あら)たに恩沢(おんたく)を承(う)くる時
      これが始めて天子の寵愛(恩沢)を受けようとする時のことである。
雲鬢(うんびん)花顔(かがん)金歩(きんぽ)揺(よう)
      雲の様に豊かな美しい黒髪(雲鬢)、花のような美しい顔(花顔)、そして
      キラキラと揺れる黄金のかんざし(金歩揺)。
芙蓉(ふよう)の帳(とばり)暖かにして春宵(しゅんしょう)を度(わた)る
      蓮の花の縫い取りのある帳の中は暖かく、春の夜は過ぎてゆく。
春宵苦(しゅんしょうはなは)だ短く日高くして起く
      春の夜はたいそう短く夜明けを恨みつつ、日が高くなってからお起きると
      いう有様であった。
此(こ)れ従(よ)り君王早朝せず
      これからというもの、天子は朝早くから政務をお執にならなくなってしま
      た。
歓(かん)を承(うけ)け宴に侍(じ)して閑暇(かんか)無く
      天子の楽しみを求める気持ちを迎え入れ、或いは宴席に侍って少しの
      暇もなく、
春は春の遊びに従い夜は夜を専(もっぱ)らにす
      春は春の遊びのお供をし、夜は夜で天子の寵愛を独占した。
後宮の佳麗(かれい)三千人
      後宮には麗しい宮女が三千人もいたが、
三千の寵愛一身に在り
      その三千人に分かち与えられるはずの天子の寵愛を貴妃一人に注が
      れた。
金屋(きんおく)粧(よそお)ひ成りて嬌として夜に侍し
      黄金造りの立派な御殿(金屋)で化粧を整え、なまめかしくあでやかな姿
      で、夜の宴席に侍り、
玉楼(ぎょくろう)宴(えん)罷(や)みて酔ひて春に和す
      玉のように美しい高殿(玉楼)での酒宴が終わった後の酔い心地は、春
      の雰囲気に溶け込んでいくのである。
姉妹弟兄皆土を列す
      楊貴妃の姉妹兄弟は皆、諸侯に取り立てられて領土を連ねて栄え、
憐(あわ)れむべし光彩(こうさい)の門戸(もんこ)に生(しょう)ずるを
      ああ、うらやましいことに一門の上に栄光が輝いた。
遂に天下の父母の心をして
      かくて、天下の父母の心をして、
男を生むを重んぜず女を生むを重んぜしむ
      男を生むことを貴ばず、女を生むことを喜ぶ風潮を起こさせてしまった。
驪宮(りきゅう)高き処(ところ)青雲に入り
      驪山の離宮(華清宮)、その高い所は、はるか雲の中に入り込み、
仙楽(せんがく)風に飄(ひるがえ)りて処処(しょしょ)に聞こえ
      この世のものとは思われない美しい音楽(仙楽)が、風のまにまに、あち
      らこちらに聞こえて来る。
緩歌(かんか)縵舞(まんぶ)絲竹(しちく)を凝(こ)らし
      緩やかに歌い、のびやかに舞、歌や舞に合わせて奏でる管楽器、弦楽
      器も粋を凝らし、
尽日(じんじつ)君王看(み)れども足(た)らず
      天子は一日中見ていても、見飽きる事がなかった。
漁陽(ぎょよう)の鞁鼓(へいこ)地を動かして来たり
      その時、突如として、安緑山が漁陽から陣太鼓を打ち鳴らし、大地を揺
      り動かさんばかりの大軍を率いて攻め上って来て、
驚破(きょうは)す霓裳(げいしょう)羽衣(うい)の曲
      玄宗が作曲した優美な天女の舞いをテーマにした霓裳羽衣の曲を楽し
      んでいた天子達を驚愕させた。 
九重(きゅうちょう)の城闕(じょうけつ)煙塵(えんじん)生じ
      奥深い宮殿にも反乱軍が突入し、煙や塵が立ち上ると
千乗(せんじょう)万騎(ばんき)西南に行く
      天子と楊貴妃の一行は千台の戦車と万の騎兵に守られて西南(蜀の成
      都)へと落ち延びて行った
翠華(すいか)揺揺(ようよう)として行きて復(また)た止(とま)り
      天子の旗(翠華、天子の御旗はかわせみの羽で飾られていた)は、ゆら
      ゆらと揺らぎ、進んでは再びとどまって
西のかた都門(ともん)を出づること百余里
      都の城門を出て西に百里ばかり進んだ馬嵬(ばかい)驛につくと、
六軍(りくぐん)発せず奈何(いかん)ともする無く
      近衛兵は止まって反乱を起こし、楊貴妃の命を求めた。(六軍、皇帝の
      率いる軍勢、一軍が一万二千五百)
宛転(えんてん)たる蛾眉(がび)馬前に死す
      かくて美しい楊貴妃は皇帝の馬前で自ら首をくくり、三十八歳でこの世を
      去った。(宛轉たる蛾眉、半円弓形に曲線を描く眉、転じて美人の事)
                                      
 楊貴妃が妃に上って十年、楊国忠の専横を糾弾すべく北京北方の守備に任じられていた節度使の安禄山(あんろくざん、七〇五〜七五七年)と史思明(ししめい)が「君側の奸臣楊国忠を排する」と云う大義名分を掲げて七五五年十一月、北京で挙兵した。
(節度使とは玄宗の時代に辺境の防衛を目的に設置された傭兵軍団の司令官で、その地方の軍事と民政を司った。河西節度使を皮切りに辺境の十ヶ所に節度使を置いた。後、節度使は地方軍閥と化して藩鎮(はんちん)と呼ばれるようになり、強大な藩鎮は中央の命令に従わず、しばしば反乱をひきおこした。唐を滅ぼし、後梁(九〇七〜九二三年)を建国した朱全忠(八五二〜九一二年)も節度使であった。日本でも奈良時代に節度使の制があり、地方の軍政を司った。)
 イラン系のソグド人と云われている安禄山は一介の兵士から身を起こし楊貴妃に取り入って、節度使に出世した人物である。安禄山は范陽(北京地方)、平盧(東北地方)、河東(太原地方)の三ヶ所の節度使を兼ね唐帝国の三分一にあたる十五万の兵力を握っていた。
 挙兵した安禄山は瞬く間に洛陽を落とし長安に迫ったが唐の将軍達は反撃を試みる事もせず玄宗皇帝は近衛兵と共に西に逃れた。そもそも、唐の朝廷は大規模な叛乱を予想していない為、兵力の大半は北方守備に任じられ、長安には十五万の大軍を鎮圧する兵力はなかった。
 しかしこの時、楊国忠に疎んじられていた顔一族が立ち上がり義兵を募って反乱軍に立ち向った。顔一族の中に王義之(おうぎし、三二一〜三七五年)以来の書の名手として後世に名を残す顔真卿(がんしんけい、七〇九〜七八五年)も加わっていた。
 玄宗皇帝は近衛の兵に守られ、楊貴妃とその一族を伴って、蜀の成都(四川省)へと落ち延びて行った。
馬嵬の地に至った時、近衛の兵は歩みを止め、反乱の原因は楊氏一族に有り、と玄宗皇帝に訴え、楊国忠を斬り捨て、楊貴妃を捉えて玄宗皇帝に決断を迫った。
 玄宗皇帝は苦渋の決断を迫られ、已む無く楊貴妃に死を賜った。楊貴妃は梨の木の枝に吊るされ三十八歳の生涯を閉じた。玄宗も反乱を招いた責任を取り退位して、息子の肅宗(しゅくそう)が即位した。
 長安を占領した安禄山は皇帝を名乗ったが内部抗争が激化し、安禄山は息子の安慶緒(あんけいちょ)に殺され、安慶緒は史思明に殺され、史思明は息子の史朝義に殺された。
 唐王室も長安奪回を目指してウイグル軍を呼び寄せ乱を鎮圧し、長安に帰還した。顔真卿も渭水(いすい)の辺で柳の枝を輪にして玄宗皇帝を出迎えた事であろう。
 九年間にわたる戦乱の結果、長安の都は荒れ果てていた。唐の詩人とほ杜甫(七一二〜七七〇年)は長安の荒廃を嘆き有名な「春望(しゅんぼう)」と題する詩を残した。

国破れて山河在り
      長安の都は戦乱のため荒れ果ててしまったが、自然の山や河は昔どお
      りにのこっている。
城春にして草木深し
      荒れ果てた城内にも春が来て、草や木が深々と茂っているのみで人影
      も見えない。
時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ
      このいたましい時世を思えば、花を見て楽しいはずなのに、かえって花
      を見は涙を流してしまう。
別れを恨(うら)んでは鳥にも心を驚かす
      親しい人との死別を恨み悲しんで嘆くたび、鳥の声にも胸騒ぎを覚え
      る。
烽火(ほうか)三月に連(つら)なり
      戦火は三ヶ月もの長い間続き、
家書(かしょ)万金に抵(あた)る
      家族からの手紙は万金に値するほど懐かしく
白頭は掻(か)けば更に短く
      白髪頭を掻と、心労のために髪の毛も短くなってしまい、
渾(すべ)て簪(しん)に勝(た)えざらんと欲(ほっ)す
      役人が頭につける冠をとめる簪(かんざし)も挿(さ)せないほどになって
      しまった。

 阿倍仲麻呂が在唐したのは七一七年〜七七〇年であり、楊貴妃の生涯と重なっている。玄宗皇帝に仕えた仲麻呂は絶世の美人と称される楊貴妃に会ったのであろうか、そして仲麻呂も安禄山の乱に遭い玄宗に随行して蜀へ行った。仲麻呂は楊貴妃の処刑を見たのであろうかなどと思いつつ華清池を後にした。

 

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