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祓戸王子〜湯峰王子

 

 祓戸王子から数百メートルの距離に熊野本宮大社の裏門があった。熊野本宮大社は元、熊野川の中洲に有ったが明治二十二年の大洪水で社殿が流出し、流出を免れた四殿を高台の現在地に遷座した。それ故、熊野古道の中辺路を辿ると熊野本宮大社の参詣は裏門から入る事となる。 
 現在地の本宮大社は鬱蒼とした杉木立に囲まれ、古風な檜皮葺の社殿は如何にも神が坐す厳粛な社の趣きがあった。玉砂利を踏んで社殿に額(ぬか)ずき願いを祈ると叶えられる様な雰囲気をかもしだしていた。
 熊野本宮大社の主神は古くは熊野坐神(くまのにいますのかみ)と呼ばれていた。何時の頃からか家津御子神(けつみこのかみ)と呼ばれ素戔嗚尊の別称とされている。
 熊野本宮大社には四殿あり第一殿には伊奘冉尊と熊野牟須美神(くまのむすみのかみ、那智大社の主神)と事解之男神(ことさかのおのかみ)、を祀り、第二殿には伊奘諾尊と御子速玉之神(みこはやたまのかみ、熊野速玉大社の主神)を祀っている。第三殿の証誠殿(しょうじょうでん)には主神の家津御子神が祀られ、第四殿には天照大神を祀っている。
 本宮、新宮、那智の三大社は元々、神社であったが聖武天皇(しょうむてんのう、四五代、七〇一〜七五六年)の頃にさかのぼると云われる本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)によって熊野は浄土の地であると見なされ、明治の神仏分離令以前は神仏習合の社であった。
 本地垂迹説とは神の本地(本籍)は仏、菩薩であり、人々を救うために仮に神の姿で現われたとする考え方で、仏教を全国に広めようと国分寺を建てた聖武天皇(四五代、七〇一〜七五六年)の時代に仏教を広めるためには旧来の神と仏の融合が必要となって考えだされた発想と思われる。
 奈良時代に始まり平安中期頃から一般に広まったとされている。神となって現われることを垂迹といい、現われた神のことを権現と云う。熊野三山(本宮、那智、速玉)を熊野三所権現と称するのもこの考え方に基づいている。
 平安時代に広まった浄土教の教えでは本宮の主神、家都美御子神は阿弥陀如来を本地とし西方極楽浄土、那智の牟須美神は千手観音を本地とし南方補陀落(ふだらく)浄土、新宮の速玉神は薬師如来を本地とし東方浄瑠璃浄土であると考えられていた。
 一方、神仏習合の典型である修験道では熊野から吉野までの大峯山脈全体を密教の曼荼羅(まんだら)に見立て、祈りを奉げる聖地を靡(なびき)と称して七十五の靡を定めた。その第一番の靡が「熊野本宮証誠殿」である。
(曼荼羅とは本尊の大日如来(毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)、東大寺の大仏は毘盧遮那仏)を中心に据え、円を描くように象徴的な諸尊を配して経の説く真理(世界観)を仏に仮託して描いた仏画である。通常、密教の曼荼羅とは「初金剛頂経」に基づいて描かれた「金剛界曼荼羅」と「大日経」に基づき描かれた「大悲胎蔵生曼荼羅」を指す。)
 明治の新政府になって神仏習合の典型であった熊野三所権現に大打撃を与えたのは慶応四年(一八六八年)、に発布された神仏分離令であった。(神仏分離令によって廃仏毀釈運動が起こった。)
 法令の趣旨は神武天皇(前七一一〜前五八五年)の時代に戻り、神社から仏教色を取り除き神道を国教とする政策を推し進める事であった。(伊勢神宮を頂点とする政策。明治三十九年には土着の神々を排斥するために神社合祀令が施行された。)
 この法令により熊野三山は仏教色を一掃し神社となった。そして明治五年(一八七三年)九月、修験道廃止令が発布され一時期、修験道は衰退した。終戦後信教の自由が保障され、再び復活し熊野三山は聖地として修験者に崇められている。
 熊野本宮大社の境内に「社殿は撮影禁止」の立て札が有ったが、通りかかった神官の許可を得て社殿を背景にスナップ写真を撮りくつろいでいると、一人のうら若き女性が現われ何を祈るのか十数分も社殿に額(ぬか)ずき一心に祈る姿を見掛けた。 
 熊野本宮大社の参拝を済ませ杉木立の中の石段を下った。石段は一二九段有り石段の両側には八咫烏(やたがらす)を染め抜いた大きな幟(のぼり)と熊野大権現と染め抜かれた奉納幟が立ち並んでいた。
 八咫烏は太陽の中にいるといわれる三本足の伝説の烏である。神武天皇が熊野の山中で道に迷い進退窮まった時、神から道案内に遣わされた烏として有名である。
 この故事から八咫烏は熊野権現の使いとして崇められ、かつて熊野聖や山伏が厄除けの護符として売り歩いた「熊野午王宝印」に描かれて全国に知れ渡った。
 現代の八咫烏は未来に導く烏として日本サッカー協会のシンボルマークになり世界で羽ばたいている。(日本サッカー協会(旧日本蹴球協会)がなぜ八咫烏を旗章に選んだかは不明であるが八咫烏をデザインした旗章を正式に採用したのは昭和六年(一九三一年)六月である。)
 一二九段の長い石段を下り、スタンプ帳に記されている「大斎原」(本宮旧社地)に向った。車道を渡りしばし歩んで角を曲がると田植えを終えた田が広がり、真っ直ぐな道の先に巨大な鳥居が姿を現した。
 鳥居の下に立って上を眺めると、それは天を突く巨大な大鳥居(高さ三三・九メートル、横四二メートル)であった。聞けば日本で一番高い鳥居との事、その巨大さに圧倒された。(木造の鳥居で最も大きいのは明治神宮の大鳥居、高さ十二メートル、幅十七メートル、柱の太さ直径一・二メートル、台湾産の檜。一代目の鳥居は昭和四十一年落雷により損傷、現在の鳥居は二代目で昭和五十年十二月に完成した。)
 元々、熊野本宮大社は熊野川、音無川、岩田川の三つの川が合流する中洲に鎮座していた。当時は上流にダムもなく熊野川の水量は豊かで川に浮かぶ島の様であったと云われている。
 この地を「大斎原」と呼び、一万一千坪の境内に十二社の社殿が建ち並び、幾棟もの摂社、末社があったと伝えられている。
 中州にある大斎原に今は橋が架かっているが、かつては橋が架かっていなかった。参詣者は足下を濡(ぬ)らして音無川を徒渉しなければならなかった。これが最後の水垢離で冷たい水に足を濡らし身も心も清めて熊野本宮大社の社殿に額ずいた。
 明治二二年(一八八九年)八月、奈良県吉野郡一帯にとてつもない豪雨が襲った。三日三晩降り続いた豪雨は明治に入ってからの急激な森林の伐採により各地で土砂崩れを起こし渓流を堰き止めた。そして、堰き止められた大量の水が堰を切って濁流となり、十津川(熊野川の上流)で大水害を引き起こした。
 流木を巻き込んだ濁流は熊野川に押し寄せ、大斎原の中州を襲い熊野本宮大社を呑み込み、四殿を残して他の社殿、摂社、末社を流出させた。
 大水害に見舞われた十津川村では至る所で山津波が押し寄せ一六八名の尊い命が奪われ、濁流は人家も田畑も押し流した。
 村は壊滅状態となり、村民は北海道に集団移住する事を決意した。六〇〇戸、二六九一人が北海道に渡り、開拓した土地が現在の樺戸郡(かばとぐん)新十津川村(現在は町)である。
 開墾は難渋を極め度々天災に遭ったが開拓を成功させたのは十津川郷士としての誇りであった。今も十津川村を母村とし両村とも村章は菱形の中に十の字(菱十印)である。この紋章は十津川郷士が幕末、御所の警護に就いた時、旌旗(せいき、天皇の御旗)として賜った名誉ある郷章である。
 熊野本宮大社は大水害から二年後、流出を免れた四殿を現在地の高台に遷座した。その後、大斎原は本宮旧社地と呼ばれるようになった。
 訪れた大斎原の地は周囲を川に囲まれた、確かに川に浮かぶ森であった。鬱蒼とした木々が中州の周囲を覆い隠し、森の中に広い草地が広がっていた。元は社殿の跡とおぼしき一段高い地に石の祠が有るのみであった。
 崇神(すじん)天皇は都から遠く離れ隔絶した熊野の山中に、それも川に浮かぶ森の中になぜ素戔嗚尊を祀ったのであろうか。
 この地で神を祀るなら神武天皇が道に迷い進退窮まって、神の使い八咫烏の案内で抜け出した故事に拠って、天照大神か武甕雷神(たけみかずちのかみ、熊野で布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)を降した)を祀るのが普通の考え方であろう、にもかかわらずこの地に素戔嗚尊を祀っている。
 日本書紀に拠ると崇神天皇の六十年(前三七年)、出雲大神の宮に収めてある神宝を見たいと云われた。武諸隅(たけもろすみ)を遣わして奉(たてまつ)らせたが、この時、神宝を管理していた出雲振根(いずもふるね)は不在であった。弟の飯入根(いいいりね)が皇命を承り神宝を奉った。帰って来た出雲振根は「何を恐れてたやすく神宝を渡したのか」と飯入根を責めた。出雲振根の恨みと怒りは去らず、ついに弟を殺した。飯入根の子と弟が朝廷に参り、仔細を報告した。天皇は吉備津彦(きびつひこ)と武渟河別(たけぬなかわわけ)とを遣わして出雲振根を殺させた。この後しばらく出雲の臣は恐れて出雲大神を祀らなかったと記している。
 この記述は崇神天皇が出雲を制圧した事を記していると思われる。その五年後に大斎原の地に社殿を創建し家津御子神(素戔嗚尊)を祀っている。
 記紀に拠ると素戔嗚尊は出雲の簸(ひ)の川(島根県の斐伊川(ひいがわ))の辺に天下り、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して奇稲田姫(くしいなだひめ)を娶った。そして須賀の宮の新居を造りになった時に詠まれた歌が
   「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」
と歌われた。(盛んに湧き起こる雲が、八重の垣をめぐらしてくれる。新妻をこもらせるために、八重垣をめぐらすことよ。あのすばらしい八重垣よ。)
 この様に素戔嗚尊は出雲の神であり、出雲に熊野大社(島根県八束郡八雲村熊野)が有る。この社は出雲一之宮として崇められ、旧称は熊野坐(くまのにいます)神社と称し主祭神は素戔嗚尊である。崇神天皇は御殿に天照大神と倭大国魂(やまとのおおくにたま、)大物主神(おおものぬしのおおかみ)、奈良の三輪(みわ)神社の祭神)の二神を祀っていたが、共に住む事に不安をおぼえ天照大神を伊勢にお遷しした。
 天照大神と同様に出雲の神、素戔嗚尊も熊野の山中のそれも熊野川の中洲にお遷しし出雲の民から遠ざけたのではないだろうか。熊野本宮大社の主神、家津御子神も古くは熊野坐神と呼ばれていた。
 漠然とこの様な事を考えながら大斎原の熊野本宮大社旧社地に参拝を済ませ、これから今宵の宿、湯峰に向う事になる。
 平安、鎌倉の参詣者は本宮から山越えの道、標高三百六十メートルの大日山に登る、「大日越へ」をして湯峰に至った。
 「大日越へ」が熊野古道、中辺路の路程であるが足を痛め、気力は萎えていないが聳え立つ大日山を見て、当初の計画に戻り大事を取って「大日越へ」は断念した。
 本宮のバス停から今宵の宿、湯峰の民宿「小栗屋」さんに電話を入れると主人がわざわざ本宮まで車で迎えに来てくれる事となった。 
 湯峰温泉は成務天皇(せいむてんのう、十三代、八四〜一九〇年)の頃に発見されたと伝えられる日本最古の歴史を持つ温泉である。
 湯の谷川に沿っていたる所から九〇度の温泉が自噴し、一ヶ所もボーリングを行なっていない事が湯峰温泉の自慢の一つでも有る。
 湯煙の立ち上る湯の谷川沿に旅館、民宿が軒を連ね、古くから病を癒す名湯として知られている。今も、湯治客が後を絶たないとの事。
 小栗判官がこの湯に浸かり蘇生したと伝えられる有名な「つぼ湯」は日によって七度も色が変わる不思議な湯で、川岸の大きな岩の窪みがあたかも浴槽の如く人一人、入るのがやっとの湯であった。 
 民宿「小栗屋」の主人、安井氏は屋号に因んで小栗判官の物語と熊野信仰に造詣が深く、夕食を終えた後、深更(しんこう)に及ぶまで氏の話に聞き入った。 
 小栗判官の物語は歌舞伎でも上演されているとのことであるが詳しくは知らなかった。安井氏に頂いた資料によると次のような粗筋である。
 「応永三十年(一四二三年)常陸の国(茨城県真壁郡協和町・旧小栗村)に城を構える小栗一族がいた。関東で上杉禅秀が乱を起こした際、小栗氏は上杉方に味方して鎌倉官領足利持氏の軍に攻められ落城した。
 小栗満重の一子、助重(小栗判官)はお家再興の命を受けて城を脱出し、一族の住む三河の国を目指して落ちのびた。
 道中、相模国の横山大善の好意に甘え大善の館に宿を取った。盗賊の頭であった大善は財宝を奪おうと鄭重に迎え入れ、膳を供し一献すすめた。疑うことなく飲み干した酒は毒酒であった。
 こうして小栗助重は横山一族に謀られて毒酒を盛られ瀕死の状態となった。この時、一目見て小栗に思いを寄せていた横山大善の娘、照手に助けられ、藤沢の遊行寺(藤沢市、時宗総本山)に逃れた。
 遊行寺の十四代大空上人に助けられ、一命は取り留めたが半身不随の身となった。病を治すには霊験あらたかな熊野に参詣して神仏の加護を得る以外にないと進言された小栗助重は「熊野詣で」に出立した。
 小栗助重の「熊野詣で」は哀れな姿であった。目も見えず、口もきけず、半身不随の身であったため土車(今で云う台車)に乗せられ照手が引き綱を引いて熊野を目指した。道中多くの人々の情けを受け難渋な長旅を続けた。相模国を出て四四四日目に湯峰に辿り着いた。
 小栗助重は熊野権現に祈願し七色に変わる薬湯「つぼ湯」に入り、目も見えず、口もきけなかった身が熊野の不思議な力を得てみごとに甦り、小栗城十五代城主としてお家再興を成し遂げた。」熊野の霊験を物語るお話であった。
 本宮から湯峰に至る車道の脇に小栗判官の土車を埋めたと伝えられる車塚や体力の回復を試した力石と伝えられる史跡があった。

 翌朝、スタンプ帳の最後、湯峰(ゆのみね)王子を訪れ最後の押印をした。九十九王子社は熊野参詣の道筋に休息所として設けられたと伝えられているが熊野本宮から離れたこの地になぜ王子社を設けたのであろうか。
 藤原定家が著わした「明月記」に湯峰は記載されておらず、その後鎌倉期に再び熊野詣が盛んとなった頃に祀られたのであろうか。 
 湯峰王子は名の通り湯峰温泉に有り、熊野の難路を越えて、祓戸王子で禊を済ませ、大斎原の地を横目に見て大日越えの難路を踏んで湯峰王子に至り、湯峰の温泉で湯垢離をして再び大日越えで大斎原に至った。
 順路をわざわざ曲げたのは本宮参拝前に旅の汚れを湯峰の湯で湯垢離(ゆごり)して身も心も清めて旅の疲れを癒し大斎原に詣でたのか、理解しがたい順路であるが古人の思いは計り難い。 
 熊野本宮大社の春の例大祭に伝わる神事に湯登(ゆのぼり)神事が有る。湯登神事では神は稚児の頭に宿るとされ、湯峰王子で神事を済ませると稚児の頭に神が降臨し、稚児は神の化身となる。それ故、神事の時以外は稚児を地面に降ろしてはならず、父親が肩車して大日越えで本宮大社に戻り神に祈りを奉げる神事との事。
 湯垢離の神事には古代の人々の思考に入り込めない何か重要な意味が有り、わざわざ湯峰を廻る順路を設定したのであろうか。 
 早朝、湯峰の温泉街を散歩した。湯峰は一筋の湯の谷川に山が迫り川筋の僅かな傾斜地に旅館、民宿が建ち並ぶ、ひなびた温泉街であった。
 温泉街に付き物の飲み屋、カラオケの看板もなく土産物店も目に付かず、ただ湯の谷川に沿って旅館、民宿が軒を連ねているに過ぎなかった。 
 平安の昔から知られ熊野詣の客で賑わった温泉も今は静かな山峡のひなびた温泉で、朝の散歩を楽しむ泊まり客もまばらであった。
 川から立ち上る温泉の湯気以外に見るものもなく、当ても無く散策していると道路脇に「一遍上人爪書きの遺跡」と伝えられる巨岩があった。脇の説明板には「南無阿弥陀仏」の六字名号が刻まれているとの事であるが説明文がなければ判読できないほど微(かす)かな刻みしか残っていなかった。
 一遍上人(一二三九〜一二八九年)は鎌倉時代に時宗を開いた遊行僧である。上人は高野山から小辺路を通って熊野に詣で、熊野本宮大社の証誠殿の前に額ずいて一心不乱に熊野権現を念じ続けて悟りを開いたと伝えられている。以後、時宗の信徒は熊野権現を護法の神と崇めている。
 上人は生涯、寺を持たぬ遊行の僧であった。上人を慕う時宗聖は全国を遊行して念仏札を配り、熊野信仰を広めていった。こうして熊野は時宗の信徒の聖地となり、時宗聖が勧進を勤める「熊野詣で」が盛んとなった。
 「小栗屋」の主人、安井氏の話に拠れば「小栗判官の物語も時宗聖や熊野比丘尼によって説法や絵解されながら、熊野の不思議な魅力を説き、熊野信仰を広めていった。」と語っていた。
 温泉街の中心地に湯元橋があり、そのたもとに白い湯煙を立ち上らせている湯筒(ゆづつ)と呼ばれる源泉がある。観光客は一様に湯気の立ち込める湯の谷川を珍しそうに眺め、或いは旅館から頂いた卵を湯筒に浸して茹でていた。
 散歩の途上、偶然にも湯筒を眺めていると前日、近露で御一緒した中年のご婦人三人に再び出会った。ご婦人達は我々より先に近露を出立し三越峠で我々の到着をしばらくの間、待ったとの事。
 我々はスタンプ帳に押印を忘れ秀衡桜に引き返したり、蛇形地蔵で道を間違えたり相当遠回りした為、追いつく事は出来なかった。お互い、奇遇を喜び、無事を確かめ合って別れ、宿に戻った。 

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熊野古道目次

 



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