熊野速玉大社〜熊野那智大社
「熊野詣で」の人々はここ湯峰で湯垢離を済ませ再び「大日越へ」で大斎原に参拝し、熊野川の川岸から川船に乗り熊野速玉大社に詣で、神武天皇が上陸したと伝えられる浜の宮王子から熊野那智大社を目指した。
我々は宿の主人の勧めもあってタクシーをチャーターし、川湯温泉を経由して熊野速玉大社、補陀洛(ふだらく)山寺から熊野那智大社まで車で行くことになった。
熊野速玉大社の由緒によれば、神代の頃、神が降臨したと伝えられる神倉山(神倉神社、新宮市西南)に祀られ、景行天皇の五十八年(一二八年)現在地に新しく境内、社殿を創建して遷宮したので、神倉山の旧宮に対して新宮と称したとある。
鮮やかな朱塗りの鳥居をくぐり参道を進むと左手に推定樹齢八百年と云われる熊野権現の御神木梛(なぎ)の大樹が大きく枝を広げていた。この梛は平重盛の手植えと伝えられ、国の天然記念物に指定されている。
南方熊楠の「神社合祀に関する意見」の中で梛の木について次のように記している。
「むかしは熊野の梛は全国に聞こえ渡れる名木で、その葉をいかに強く牽(ひ)くも切れず、夫(おっと)に離れぬ守りに日本中の婦女が便宜してその葉を求め鏡の裏に保存し、また武士の金打(きんちょう、約束のしるしに、武士は刀を、女は鏡をうちあわせた)同様に女人はこの梛の葉を引きて誓言せり。定家卿が後鳥羽上皇に随い熊野に詣し時の歌にも「千早振る熊野の宮のなぎの葉を変はらぬ千代の例(ため)しにぞ折る」とあり。しかるに濫伐や移裁のために三山に、今は全滅し、ようやく那智社境内に小さきもの一本あり。」と記している。
さらに参道を進むと朱塗りの神門、その先に朱塗りの社殿が横に五棟建ち並んでいた。社殿はまだ新しく昭和二十六年(一九五一年)に再建された。
熊野速玉大社の主祭神は速玉大神であるが熊野三山では等しく本宮大社の家津御子神、那智大社の夫須美大神を祀っている。
熊野速玉大社を後にして、補陀洛山寺に立ち寄った。補陀洛山寺はこの地から小船に乗り南の海の果てに補陀洛浄土が有ると信じて船出したと伝えられる寺である。往古、寺の庭先が浜であったとの事。
寺には船出した僧侶の名を記す石碑が有った。石碑には貞観十年(八六八年)の慶龍上人に始まり江戸時代の亨保七年(一七二二年)の宥照(ゆうしょう)上人まで二十五人の名が刻まれていた。
補陀落渡海は北風が吹き始める旧暦十一月の夕刻に行われた。渡海僧は僅かな食料と灯火の油を積み外から釘を打ち付けられた屋形船に籠もり、曳舟に引かれて沖に出ると曳綱が切られ、風と潮にまかせて浄土に旅立った。補陀落渡海とは死出の旅路であり、いわば生きながらの水葬である。
碑を眺め、渡海僧が乗り込んだ船を復元した渡海船を眺め、当時の情況を思い描いていると見送る人々の唱える読経の声が聞こえる様な気がした。
車は海岸線を走り浜の宮を過ぎて右に折れ山中を熊野那智大社に向った。浜の宮は神武天皇東征の折りに上陸したと伝えられる海岸である。
神武天皇は草香(くさか)の白肩津(しらかたつ、生駒山の西麓、東大阪市日下(くさか)町の辺りにあった船着場、往時はこの辺りまで江湾であった。)に船を留め、生駒を越えて、孔舎衛坂(くさえのさか、暗峠)から大和に攻め入ったが、登美(とみ、生駒山の東、奈良市富雄町の辺り。)の豪族長髓彦(ながすねひこ)に敗れた。この戦いで神武天皇の兄、五瀬命(いつせのみこと)は矢傷を負いそれが元で落命した。
神武天皇は軍を引き、「日を背にして南から攻めよ」との神のお告げを得て、紀伊半島を南下し熊野の荒坂津(丹敷浦 にしきうら)に上陸した。この時、行宮を置いたのが浜の宮と伝えられている。
日本書紀には天皇は皇子の手研耳命(たぎしみみのみこと)と軍を率いて熊野荒坂津に至り、そこで丹敷戸畔(にしきとべ)と云う女酋長を誅したが、その時、神が毒気を吐き軍を萎えさせた。
そこに、熊野の豪族高倉下(たかくらじ、神倉神社の祭神)が現われ夢枕に立った天照大神の神勅(しんちょく)により布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ、奈良県天理市の石上(いそのかみ)神社のご神体)を献上に来たと答えた。天皇が布都御魂剣を受け取ると毒気に当てられ眠り込んでいた兵卒も目覚めて起き上がった。
神武天皇は熊野の山中を進んだが山は険しく、行くべき道もなく、退くことも出来なくなった。夜また夢を見た。夢の中に天照大神が現われ、八咫烏(やたがらす)を遣わすから、これを案内にせよと仰せられた。
はたして、天空から三本足の八咫烏が舞い降り、この烏の案内で山を越え宇陀(奈良県宇陀郡)にお着きになった。
私見ではあるが神武天皇は那智山に登り(丹敷浦に上陸して那智の山に白く輝く光を見て那智大滝を見つけ神として祀ったとの言い伝えがある。)、大雲取、小雲取の険路を越え大斎原の地に至った。そこから先に進む事も、退くこともできず道に迷った。
夜、眠りにつくと夢の中に天照大神が現われ八咫烏を遣わすのでこの者の案内で進めとご神託があった。想像するに、八咫烏は大峯山脈の稜線を縦走する修験道の「奥駆け」道を先導し山上ヶ岳を経て、吉野から宇陀に至ったのではないだろうか。
「大峯奥駈け」七十五靡(なびき)の一つ玉置山(たまきやま)は神武天皇が八咫烏に先導され兵を休め神宝を置いて勝利を祈ったと伝えられる地であり、玉置山に登ったとなれば尾根筋に付けられた修験道の「奥駆け」道を行軍し、山上ヶ岳(大峯山)を経て、五番関から吉野川上村に下ったと思われる。
古事記に拠ると八咫烏の先導で吉野川の川尻(かわじり)に至りし時、筌(うへ、竹を編んだ筒を流れに仕掛けて魚を取る道具)を作りて魚を取る人あり。神武天皇が汝は誰ぞと問えば国つ神で名を贄持之子(にへもつのこ)と答えた。こは阿陀(あだ)の鵜養(うかひ)の祖なり。
そこからさらに進むと尾の生えた人が井から出てきた。その井の中は光っていた。汝は誰ぞと問えば国つ神で名は井氷鹿(いひか)と答えた。これは吉野首(おびと)の祖である。
そこからなを山に入るとまた尾の生えた人に出合った。この人は岩を押し分けて出て来たので、汝は誰ぞと問えば国つ神で名を石押分之子(いわおしわくのこ)と答えた。神武天皇がおいでになると聞きお迎えに参ったと答えた。これは吉野の国巣(くす)の祖である。さらにそこから山坂を踏み分け越えて、宇陀にお進みになった。と記されている。
井氷鹿は吉野川の上流、奈良県吉野郡川上村に井光(いひか)の地名が有り、国巣は井光から吉野川を少し下った吉野郡吉野町に国栖(くす)の地名がある。
阿陀は古事記の注釈によると奈良県五條市東部の東阿田、西阿田の辺りとされているが東阿田、西阿田は吉野川の中流域である。次に登場する井光は吉野川の上流域に有り宇陀に向かう道筋としては地理的に矛盾する。
神武天皇が大峯山を下ったとすれば古事記に記されている阿陀の地は上多古川の流域か吉野川との合流地の辺りと思われる。
いずれにしても神武天皇は熊野の浜の宮から那智の滝を目指して那智山を越え大雲取、小雲取の険路を越えて本宮に至り、本宮から玉置山で兵を休め八咫烏の案内で山に分け入り、熊野古道の「大峯奥駈け」道を辿り大峯山から川上村の吉野川に下り宇陀に至ったと思えてならない。
神武天皇の行宮跡とされる浜の宮には熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)が有り、古くは九十九王子の一つ「浜の宮王子」であったため、浜の宮大神社(はまのみやおおみわしゃ)とも呼ばれている。
浜の宮から左手に海を眺めながら海岸線をしばらく走り新宮駅前から右に折れて那智大社に向かった。
那智大社の駐車場に着き、車を降りてすぐにご婦人から声を掛けられた。何と云う奇遇、滝尻までのバスで御一緒した千葉のご夫妻であった。ご夫妻は帰りのタクシーを捜しに駐車場に来たところであった。
話しを伺うと、千葉のご夫妻は我々と同じ様に熊野古道に寄せるイメージは杉並木の石畳の路を思い浮かべていた。近露までちょっと長いが幽玄な古道の宣伝に惹かれわざわざ朝一番の飛行機に乗り、電車、バスを乗り継いで滝尻に着き歩き始めた。
しかし、滝尻からいきなり急峻な登りが続き、想像していた古道のイメージと余りにもかけ離れた登山と変わらぬ登り下りに驚き、高原熊野神社で古道歩きを断念したとの由。
高原熊野神社の近くの民家で道を尋ね国道に出てバスに乗り川湯温泉に二泊したとの事。奇遇と云うか熊野の神の引き合わせか熊野那智大社でばったりお会いしその不思議な出会いに驚いた。
聞けば昨日も熊野那智大社に詣でたが大雨に降られ、那智の滝も遠望出来ず川湯温泉に引き返してもう一泊し本日、再び訪れたとの事。
そう云えば我々も伏拝王子を過ぎた頃、しばしの間、狐の嫁入りの如き小雨に遭ったが熊野の神が引き合わせる為に那智に大雨を降らせたのかも知れぬ。思いも寄らぬ再会であった。ご夫妻に別れを告げ、三十三番札所の第一番、青岸渡寺にお参りした。
青岸渡寺の創建は古く仏教伝来以前の仁徳天皇(一六代、生没年二五七〜三九九年)の御世、遠くインドから裸形上人(らんぎょうしょうにん)が熊野に漂着し、那智大滝で修行中、滝壺から八寸(二四センチ)の観音像を得た。上人はこの像を安置するために草堂を建てたのが始まりとされている。(日本書紀に拠ると仏教伝来は欽明天皇の十三年(五五二年)百済の聖明王から金銅の釈迦仏がもたらされたとある)
その後、推古天皇(三三代、五五四〜六二八年)の御世に大和の国から生仏という僧が那智を訪れ、玉椿の大木に一丈(およそ三メートル)の如意輪観音を彫り、観音の胸に裸形上人が得た観音像を納めて本尊とし、本堂を建立して如意輪観音を祀ったのが如意輪堂の始まりと伝えられている。この事から青岸渡寺は如意輪堂と呼ばれていた。寺伝の通りとすれば日本最古の寺である。
青岸渡寺は「西国三十三所観音巡礼」を定めた花山(かざん)法皇と縁の深い寺である。法皇は在位二年、十八歳の若さで退位し出家の道を選び三田(兵庫県三田市)の花山院に隠棲した。
その後、「播磨国(姫路)書写山圓教寺」、「比叡山延暦寺」、で修行を重ね天台の教義を修めた。書写山圓教寺と名付けたのも花山法皇である。(圓教寺は康保三年(九六六年)性空上人(しょうくうしょうにん、九一〇〜一〇〇七年)によって開かれ、西の比叡山とも呼ばれている。)
花山法皇が那智を訪れた時、桜の花が真っ盛りであった。法皇は満開の桜を見て、
「石走る滝にまがひて那智の山高嶺を見れば花の白雲」
と詠んだ。
そして花山法皇は正暦三年(九九二年)より五年(九九四年)まで、那智大滝の上流にある「二の滝」近くに庵を結び一千日参篭の修行を積まれた。
そして、観音巡礼の旅に出て各地で歌を詠んだ。これがご詠歌の始まりと伝えられている。
因みに青岸渡寺の御詠歌は
「補陀洛や 岸うつ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬」
法皇は札所を定めるに当たり、熊野の霊験に深く感じ入り、徳道上人(花山法皇より二七〇年ほど前に三十三所観音霊場を発願(ほつがん)したが結願(けちがん)に至らなかった)が当初、中山寺(兵庫県宝塚市)を一番札所と考えていたのを改め、那智山青岸渡寺を一番札所として新たな順路を定めたのかも知れない。熊野にはそれほど人々の心を魅了する不可思議が有る様に思えてならない。
青岸渡寺の薄暗い堂内に入ると線香の香りが充満し、スピーカーからご詠歌がもの悲しく堂内に響き渡り、重々しい霊場の雰囲気を醸し出していた。堂内では朱印を頂く掛け軸に眺めいる人、巡礼の方であろうか納経所で記帳を求める姿も見掛けた。
青岸渡寺に隣接して熊野那智大社がある。熊野那智大社の由緒に拠ると神武天皇が丹敷浦(にしきうら)に上陸し、那智の山に光が輝くのを見て大滝を探り当てられ神として祀り、見晴らしの良い現在地に移ったのは仁徳天皇の五年(三一七年)と伝えられている。
那智大社は延喜式神名帳が編纂された当時、明らかに存在していたと思えるが何故か式内社の選に漏れている。この頃すでに那智大社と青岸渡寺は一体であり神社と見なされなかったのであろうか。
那智大社も権現信仰と共に神仏習合の典型的な社となり、青岸渡寺(如意輪堂)も元は熊野那智大社と渾然一体であった。最盛期には那智大社に七寺三十六坊の仏寺や坊舎が有ったと伝えられている。
戦国期になると織田信長の紀州攻めによって熊野那智大社も青岸渡寺も焼き払われた。現在の那智大社と青岸渡寺は豊臣秀吉が再建し、那智大社は徳川期の享保、嘉永期に大改修が行われた。
慶応三年十月、徳川慶喜が大政を奉還して明治政府が発足すると、明治政府は王政復古、祭政一致を基本理念とし太政官の一つとして神祗官(じんぎかん)を置いて事実上神道を国教としキリスト教を弾圧した。(太政官、立法は議政官、行政は行政・神祗・会計・軍務・外国の五官、司法は刑務官が司る)
そして、慶応四年(一八六八年)三月、明治政府は神仏分離令を発布し強引に神社と寺院を分離した。この法令によって神仏習合の典型であった那智大社に試練が訪れた。
那智大社は神社を選び仏教、修験道を廃し廃仏毀釈を行った。境内の仏寺や坊舎を取り壊し仏像、仏具類は補陀洛山寺、等に移された。
本堂の如意輪堂は西国三十三所観音巡礼の一番札所であり、さすがに取り壊せなかった。明治七年(一八七四年)如意輪堂は那智大社から分離独立し天台宗の一寺として那智山青岸渡寺と名を改め再興された。
寺名の青岸渡寺とはご詠歌にも詠われているように補陀落渡海を意識して、青い海を渡るとその向こうに観音の浄土があるとの意味を込めて名付けられたのであろうか。
この様な過去が有った事を観光客は深く考えず隣接している青岸渡寺と那智大社に何の違和感も無く仏に祈り神に柏手(かしわで)を打っている。
熊野那智大社は青岸渡寺の重々しい雰囲気とは一転して新築されたのかと見紛う程に赤いべんがらの社が初夏の光を受けて鮮やかに輝いていた。
通り過ぎる巫女の赤い袴姿も山の緑に映え浮き立つ様に見えた。本宮の古色をおびた重厚な趣とはおよそかけ離れ、山の翠と社の朱色が一層きらびやかな雰囲気を醸し出し軽やかな印象を持った。
境内には平重盛が手植えしたと伝えられる推定樹齢八五〇年の樟の大木が枝を広げていた。
那智大社に参拝して我々も三所権現の巡拝を終え、那智の滝が見下ろせる青岸渡寺の高台に引き返した。
山の翠を背景に岩肌に薄絹を掛けたごとく白く流れ落ちる那智大滝と、見た目にも新しく色鮮やかな朱塗りの三重塔(昭和四七年(一九七二年)に再建された)を配した構図は一幅の絵を見る様であった。
そして、此処から眺める熊野の山並みは常緑広葉樹に覆われ新緑が眩しいほど鮮やかであった。
熊野那智大社を後にして車道を避け、杉木立の中の石段を下り那智大滝に向かった。飛瀧(ひろう)神社(那智大滝がご神体)に向かう参道は杉の巨木が連なり下るにつれて滝の水音が殷々(いんいん)と大きくなってきた。
那智大滝は落差一三三メートル、直瀑の滝としては日本一と云われている。那智の大滝は一の滝と呼ばれ上流に二の滝、三の滝が有る。花山法皇が庵を結び千日の修行を積んだのは二の滝の近辺と伝えられている。
那智大滝には熊野那智大社別宮飛瀧神社が鎮座している。この神社には本殿も拝殿もなく、滝の正面に鳥居が有るのみで大滝がご神体である。
滝を見上げると滝口に架かる注連縄(しめなわ)が神域を示す璽(しるし)として神聖な滝である事を示していた。
那智大滝は水量が細ったとは云えさすがに天下に聞こえた名瀑である。流れ落ちる水は磐を削り轟々と、竜が唸(うな)るが如く水音を響かせて一気に流れ落ちていた。飛沫が霧となって辺りを濡らし霧雨の中に佇むようであった。
往古、この滝を見て神を感じ龍神の化身であろうと想像したのも今より遥かに水量が豊かであればうなずける気がする。
藤原定家は那智大滝を見てどの様に感じたのか興味をもって「明月記」を読み進めたが、不思議な事に那智大滝に関する感想はそっけなく次の様に記している。
明月記には「那智に参著す。先ず滝殿を拝す。嶮岨遠路、暁より食せず。無力極めて術無し。」
定家は腹痛で食事を取らなかったのか厳しい登りに疲れ切りただ、那智大滝を拝したと記しているに過ぎなかった。
本宮、速玉、那智と熊野三所権現を参拝し我々の「熊野詣で」も終わりに近付いた。昔、「熊野詣で」の人々は熊野那智大社に参拝を済ませ、帰路は妙法山に登り、大雲取、小雲取の険路を踏んで再び本宮の地に戻り、往路に辿った中辺路(なかへち)を歩いて都に帰ったと伝えられている。
「明月記」を読むと藤原定家は雨の中、暁に出発し豪雨に見舞われながらも現在は二日の行程と言われている大雲取・小雲取の峠越えを一日で走破している。「明月記」には大雲取・小雲取の峠越えを次のように記している。
「天明、風雨の間、路窄(せま)く、笠を取る能はず、蓑を著く。輿の中、海の如く、埜(の、野の古字)の如し。終日嶮岨を超ゆ。心中夢の如し。未だ此の如き事に遭わず。雲トリ、紫金峯に立つが如きか。戌(いぬ、二十時)の時、許(ばか)りに本宮に着き、寝に付く。此の路嶮岨、過ぎ難し。」
定家は十月五日、白い浄衣を着て京を出発し、十月二十六日に京に帰着している。この間、精進料理であったのか二十六日に京に帰り着くと「髪を洗ひ沐浴し了(おわ)りて寝に付く。今夜魚食なり。」と記している。
我々は大雲取、小雲取の険路を越えて再び中辺路を引き返す体力も気力もなく、那智の滝からバスで勝浦に出て、勝浦の湾内を遊覧し電車で帰阪した。
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