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  下市口〜洞川

 

 
 修験道で有名な大峯山は古くから霊山として崇められているが大峯山と云う固有名称の山はなく、通常は山上ヶ岳を指している。
 しかし、修験道で大峯山と云えば紀伊山地の中央を南北にのびる全長およそ百五十キロほどの大峯山脈全体を指し、山脈全体が修験道の聖地である。
 中でも山上ヶ岳は役行者が一千日に亘り祈り続け、金剛蔵王権現が湧出したと伝えられており、今も修験道の聖地として日本で唯一「女人禁制」を頑(かたく)なに守っている。
  山上ヶ岳は現在の呼び名で歴史的には吉野から山上ヶ岳一帯を金峯山(きんぷせん)と呼んでいた。
 平安時代には浄土信仰と山岳宗教が結びつき阿弥陀の浄土とされた「熊野詣で」と共に弥勒の浄土とされた金峯山に登る「御嶽詣で」も盛んであった。当時、御嶽に詣でるには世俗を絶ち、不浄を行わず数十日の精進潔斎(しょうじんけっさい)の後に出立した。
 宇多(うだ)法皇(五九代、生没年八六七〜九三一年)は修験道中興の祖、理源大師聖宝(しょうぼう、八三二〜九〇九年)の先達で御嶽に詣でと伝えられている。
 昭和五十九年、大峯山寺大修理の際、発掘調査が行なわれて出土した二体の黄金仏は宇多法皇のご寄進の可能性が高いとされている。
 平安時代、栄華を極めた藤原道長(みちなが、九六六〜一〇二七年)も精進潔斎の後、御嶽に詣で自ら写経した経巻を大峯山寺に奉納した。元禄四年(一六九一年)に大峯山寺再建の折り、寛弘四年(かんこう、一〇〇七年)に埋納されたことが記された「金銅藤原道長経筒」が出土し現存している。
 白河法皇は寛治四年(かんじ、一〇九〇年)に初めて熊野に詣でた二年後の寛冶六年に御嶽に詣でている。この様に平安期、熊野詣でと共に御嶽詣でも盛んであった。

 山歩きから久しく遠ざかり、少なからず不安があったが、昔五〜六回は登ったと思う山でも有り、昔を懐かしんで登る事となった。
 同行のH氏は吉野から大峯山脈の稜線を奥駈けして本宮に至る熊野古道の一つ「大峯道」に挑戦したかったようだが、我々は体力に自信が持てず洞川(どろがわ)から山上ヶ岳に登り山上の宿坊で一泊して吉野に下る事とした。
 九月十七日、近鉄阿倍野駅午前七時五十分発の急行に乗車して下市口で下車した。下市口の駅舎もバスの乗り場も昔のままで駅周辺の雰囲気は三十数年前とさほど変わりが無かった。
 乗り込んだ路線バスも昔と同様の小型バスであった。バスの路線も昔と変わらず街中の狭い道路であった。対向車が来ると家々の軒先に触れそうになるぐらい幅寄せしないとすれ違えないほどの狭い道を運転手は慣れているのかいとも簡単に運転していた。
 車窓から眺めた下市の街は昔と変わらなかった。車が行き交うのもやっとの狭い道路の両側はびっしりと家が建て込み商店が軒を連ねていた。
三十数年の間に変貌を遂げた東京や大阪の街並みとは異なり下市には昔の街並みが原風景として残っていた。
 下市は吉野杉の端材を利用した高級感の有る杉の割り箸の生産地でもある。下市で作られた割り箸は五條の商人によって全国に販売された。
 しかし、素材の移り変わりと共に割り箸の産地はエゾマツ、シナ、カバの原木が豊富な北海道に移り、近年は韓国、中国を代表に、インドネシア、フィリピン、タイ、ベトナム、カナダ、チリ、北朝鮮、パキスタン他、数カ国から輸入されているとの事。バスの車窓から見かける割り箸工場も心なしか数が減ったような気がする。
 下市の街を過ぎるとバスは山間に点在する小さな集落を縫うように狭い旧道を走った。丹生(にう)のバス停前には延喜式内社に名を連ね、水を司る神として崇められている丹生川上神社の下社があった。
 丹生川上神社は天武(てんむ)天皇白鳳四年(六七六年)、「人聲ノ聞エザル深山吉野ノ丹生川上ニ我ガ宮柱ヲ立テテ敬祀(うやまい、まつ)ラバ天下ノタメニ甘雨ヲ降ラシ霖雨ヲ止メム」との神宣により創祀されたと伝えられる古社である。
(白鳳(はくおう)という元号は日本書紀には記されていない元号である。通説に拠ると元号は孝徳天皇の時に大化(六四五年)の元号が定められたのが最初といわれている。次いで六五〇年に白雉(はくち)と改元されたが孝徳天皇が崩御して白雉は四年で終わり、その後の斉明・天智・弘文天皇は元号を定めず、天武天皇が定めた朱鳥(しゅちょう、六八六年)の元号まで三二年間、日本書紀に元号は記されていない。白鳳の元号は諸説あるが天智・天武朝の六七二〜六八六年の元号と思われる。)
 慶応三年十月、徳川慶喜が大政を奉還して明治政府が発足すると、明治政府は王政復古、祭政一致を基本理念とし神祗官(じんぎかん)を置いて事実上神道を国教とし、明治四年五月、政府は太政官布告を公布し官幣社を定めた。(明治二年に定められた政治体制は二官六省制。二官は神祗官、太政官。六省は太政官の下に民部省、大蔵省、兵部省、刑部省、宮内省、外務省を設置)
 この時、延喜式神名帳に記されている神社を基準とし、丹生川上神社も名神大社に列せられたが、丹生川上神社は上社、中社、下社の三社が存在していた。
 明治政府は現在の下社を丹生川上神社と認定し旧官幣大社とした。(延喜式神名帳とは全国の神社を明神大社、大社、小社に分類、格付けし、官幣社として認定した由緒ある神社の一覧で神名帳に記載されている神社をいわゆる式内社と呼ぶ。醍醐天皇の延喜五年(九〇五年)に編纂を開始し延長五年(九二七年)に完成したと伝えられている。)
 その後、吉野郡川上村の上社、吉野郡東吉野村の中社が本来の丹生川上神社ではないかとの説が起こり、三社併せて一社とし丹生川上神社とした。
 丹生川上神社を創祀したと伝えられる天武天皇(大海人皇子、おおあまのみこ)は病床にある同母兄の天智天皇に謀反の嫌疑を掛けられる事を怖れて剃髪し恭順の意をしめした。
 そして、六七一年十月、僅かな従者と共に大津京を逃れ、冬枯れの野山を急ぎ大和の飛鳥を経て吉野宮滝(上市から東に四〜五キロ)に隠れ住んだ。
 宮滝は山間に位置するが北に奈良・京都、南は熊野、西は和歌山、東は東海へとつながる地の利に恵まれた地であった。
 そして、吉野宮滝には斉明天皇(さいめい、三七代、五九四〜六六一年)が斉明二年(六五六年)に造営した「激つ宮処」(たぎつみやどころ、激つ宮処から転じて宮滝の地名が生まれた。)と呼ばれる吉野の宮があった。(斉明天皇は皇極天皇(三五代 六四二〜六四五年 女帝)が孝徳天皇の崩御の後、重祚(ちょうそ、一度退位した天皇が再び位に就くこと)して帝位に就いた。)
 大海人皇子はこの離宮に約八ヶ月過ごした。大海人皇子は天智天皇が六七一年十二月三日に崩御した事を知り、翌年の六月二十四日に挙兵した。
 大海人皇子は吉野から北に向かわず(大和は近江朝に押さえられていた。)東の伊勢街道を進んで伊賀、伊勢に至り、伊勢から美濃と大きく迂回し、その間に東国の兵を集め、大津に攻め入った。(壬申の乱)
 こうして大友皇子(弘文(こうぶん)天皇、明治になって追諡(ついし)された。)を破った大海人皇子は飛鳥で即位し天武天皇となった。大海人皇子が吉野宮滝に隠れ住んだ頃、さほど距離の離れていない丹生に足跡を残したのであろうか。
 丹生を過ぎバスは山間の村落を縫うように走った。地図を眺めるとこの辺りに垣内(がいと)と名の付く地名が多い事に気付いた。垣内とは何を意味するのか、古代の環濠集落の名残を残す地名であろうか、バス路線上に稲荷垣内、川原手垣内、陰地垣内、谷垣内、峯垣内、が有り、丹生川沿いには下手垣内、上手垣内、臼の垣内、平山垣内が有った。
 バスは道の駅「吉野路黒滝」でトイレ休憩を兼ね五分間停車となった。喫煙の機会に恵まれバスを降りると、運転手もバスを降りてタバコを取り出していた。どうやら運転手の喫煙タイムの休憩であった様だ。
 バスを降りてタバコを吸っていると気さくな運転手は早速、どこから来て、どこへ行くのかと話し掛けて来た。
 大峯山に登ると答えると「十五〜六年前、今の天皇陛下が皇太子の頃、洞川から大峯山に登られた。その時は大変な警備で自衛隊まで出動して来た。」
 私は「大峯山に登られたのは今の皇太子では有りませんか?」と問うと、運転手は「今の皇太子も数年前に登られた。昭和天皇も植物採集に吉野に来られた。土地の者はそれほど貴重な植物とは知らなかったがわざわざ採集に来られた。その植物が自生している場所は吉野で数少ない式内社の一つ、大名持(おおなもち)神社の裏に低い岩山が有る。岩山は神社のご神体で有るが故に人の手が入らず手付かずで原生林が残っている。その原生林に群生していると聞いている、その岩山は天然記念物に指定されている。そして、毎年六月三十日、大名持神社の前の吉野川から熊野の海水が湧き出るという古くからの言い伝えがある」と話された。
 大名持神社を調べてみると吉野郡吉野町河原屋に有り、祭神は大名持御魂神(おおなもちみたまのかみ)、須勢理比羊命(すせりひめのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)であった。
 古事記に拠ると大名持御魂神とは大国主神の別名で亦(また)の名を大穴牟遅神(おほなむじのかみ)と謂(い)ひ、正妻は素盞鳴尊(すさのおのみこと)の娘、須勢理比羊命であった。そして大国主神と少彦名命が協力して国造りをしたと記されている。
 大名持神社の創紀年代は詳らかでないが大和国吉野郡十座の一つとして金峰神社、丹生川上神社と共に名神大社に列せられ正一位を賜っている由緒有る神社であった。
 この神社のご神体は吉野川の川岸から屹立(きつりつ)した二百六十メートルの独立峰、妹山(いもやま)である。妹山は神の坐す山として崇められ太古から斧を入れる事を禁じた禁忌(きんき)の山である。対岸に背山があり、万葉集では妹背(いもせ)の山として詠まれている。
 妹山は吉野宮滝に有ったとされる吉野の宮に近く、万葉人も度々訪れたのか、妹山を詠った歌が万葉集に十五首詠われている。持統天皇(天武天皇の皇后)に仕えた柿本人麻呂も妹山を訪れたのか次の様な歌を詠じている。

 「大穴牟遅(おほなむじ)、少御神(すくなみかみ)の作らしし妹背の山は見らくしよしも」

 全山鬱蒼とした広葉樹林に覆われた妹山は妹山樹叢(じゅそう)と呼ばれ、昭和三年三月、天然記念物に指定されている。
 昭和天皇が吉野地方を行幸されたのは昭和五十六年(一九八一年)五月の事で、妹山樹叢を訪れ親しくご覧になられ、運転手が話していた珍しい植物とは妹山に群生する「ツルマンリョウ(蔓万両)」と思われる。又、大峯山に登られたのは運転手の勘違いでやはり皇太子浩宮徳仁親王殿下であった。
 洞川登山道に数カ所、皇太子が休息を取られた場所と思しき所に石碑が有り、石碑には平成二年六月に皇太子浩宮徳仁親王殿下が休息を取られたと記されていた。(今上天皇陛下の石碑は見当たらなかった)
 都会の運転手と異なり、五分の休憩が七分、十分と過ぎたが急ぐ気配も見せず、話しの途中だが出発の時間が気に掛かり、そろそろ時間ではと促したが返って来た返事は「せかんでもええ、トンネルが出来たさかへ急がんでもええ」と再び煙草を取り出し、滔々(とうとう)と自説を語り終えるまで出発しなかった。
 乗客も心得たもので、道の駅「吉野路黒滝」の売店に立ち寄り、名物の竹串に挿したこんにゃくの味噌田楽を食していた。
  愉快な運転手との会話を終え、結局、十五分近く休憩したバスは道の駅「吉野路黒滝」を出発し、新笠木トンネルを抜け、天川村百年の悲願がかなって、平成九年十月に完成した新川合トンネルを抜けて天川村川合に着いた。(昭和五十九年(一九八四年)に延長一六九三メートルの新笠木トンネルが完成し、平成九年十月(一九九七年)延長二七五一メートルの新川合トンネルが開通した。)
 このトンネルの完成で笠木峠越えが無くなり洞川までの所要時間が大幅に短縮された。運転手が「トンネルが出来たさかへ急がんでもええ」と答えたトンネルは新川合トンネルの事であった。
 三十数年前に登った時のバス路線は黒滝村から笠木峠、川合峠を越えて天川村に至った。 この笠木峠, 川合峠は道幅も狭く、 急カーブ、急勾配が連続する難所であった。
 バスは天川村川合で停車した。天川村川合は弥山(みせん、標高一八九五メートル)への登山口で一人の登山者が降りた。三十数年前、弥山に登った時もここでバスを降りた記憶が有る。下車した青年も弥山に向うのであろうか。
 川合から洞川までさほど時間は掛からなかった。洞川は標高八二〇メートルの高所に有りバスを降りるとさすがに涼しさを感じた。
 天川村洞川の里は修験道のメッカ大峯山に登拝する登山口として五百年の歴史を持つ古い温泉地である。近畿ではめずらしい鍾乳洞(五代松鍾乳洞)が有り、川ではイワナが釣れ、冬はスキーが楽しめる観光地でもある。
 バスに乗り合わせたご婦人達は洞川を散策し温泉を楽しみ十六時のバスで帰ると話しているのが聞こえた。
 我々も降りる支度をしていると運転手は申し訳なさそうに「平日なのでここで終点です」と我々に告げた。三十数年前もここから歩いたので不思議に思い運転手に伺うと三十数年前とは異なり土日なら清浄大橋の登山口までバスが行くそうである。
 我々はバス停から山上川に架かる橋を渡って山上ヶ岳に向ったが、橋を渡らずに真っ直ぐ行くと真言宗当山派別格本山龍泉寺に至る。
 龍泉寺は大峯山寺の護持院の一つで、役行者が洞川で修行中、泉を発見しその辺に小堂を建て八大竜王を祀って水行したのが始まりと伝えられている。その後、修験道中興の祖、理源大師聖宝が再興した洞川の名刹である。
 バスに乗り合わせたご婦人達は橋を渡らずに真っ直ぐ行ったので龍泉寺に向うのであろう、我々も本来なら龍泉寺にお参りしてから登るべきであるがお参りを省略しバス停から右に折れ山上川に架かる橋を渡って登山口に向かった。

次のページ 洞川〜清浄大橋

大峯山峯入紀行目次

 

 


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