洞川〜清浄大橋
山上ヶ岳に向う道筋は昔と変わらず道の両側に木造の旅館、土産物店が軒を連ねていた。昭和四十年代、娯楽が少なかった事も有り山登りが手軽なスポーツとして一つのブームであった。
ここ洞川も全国から訪れる信者と共に、女人禁制を守る信仰の山に興味を惹かれ登山を楽しむ若者達が大勢訪れた。我々も土日を利用して度々、大峯山に登った。
当時の洞川の温泉街は活気に満ち旅館の縁側から精進落しは是非うちの宿でとあちこちから声が掛った。どの宿も登山客や信者に茶を振舞い精進落しの客引きに余念がなかった。
昔は不浄を行わず酒色を絶ち数十日の精進潔斎の後、身を清めて大峯山に登り、参拝を済ますと再び洞川に下って、ドンちゃん騒ぎをして精進落しをした街でもある。洞川は精進落しにかこつけた山間の色町(いろまち)でもあった。
しかし、今は時代も変わり洞川はひなびた山間の温泉地の風情に変わっていた。道の両側に建ち並ぶ旅館は昔のままの佇まいを残していたが客引きの女性の姿は消え、茶を振舞ってくれる店もなく、昔のような華やかな洞川の風情は消え失せていた。
洞川の雰囲気が昔と様変わりしたとは云え見たところ廃業した店も無く、庭先には大峯山の御神木である石楠花(しゃくなげ)が植えられていた。
精進潔斎を怠った故か歩き始めて山を見上げると山の中腹から上は黒い雲に覆われていた。雨の心配をしながら温泉街を通り抜け、昔と同じように舗装道路を約一時間、登山口を目指して歩いた。
途中の道路脇に七、八台の乗用車が駐車していた。何か有ったのかと近付いて見ると「名水百選」に選定されている洞川湧水群の一つ「ゴロゴロ水」の水を汲みに来た人達であった。昔はこの様な光景を見掛けなかったが洞川湧水群が「名水百選」に選定された事が契機となったのであろう。
(「名水百選」は昭和六十年環境庁によって選定された。選定の条件は各都道府県が推薦した湧水又は河川を対象とし、一、水質・水量、周辺環境(景観)、親水性の観点からみて、保全状況が良好なこと。二、地域住民等による保全活動があること。を必須としその他・規模・故事来歴・希少性・特異性・著名度等を勘案して選定された。名水百選に選ばれた洞川湧水群は「ゴロゴロ水」と「神泉洞」と「泉の森」の三ヶ所。)
「ゴロゴロ水」は五代松(ごよまつ)鍾乳洞の真下に有る為か水の流れる音がゴロゴロと聞こえるところから「ゴロゴロ水」と名付けられた。
この名水を求めて平日にもかかわらず車で大勢の人が水を汲みに来ていた。見ると業務用に使うのか二十リットルのポリタンクを十個も運んで水を汲んでいる人も見かけた。我々も名水を一口味わって見ようと思ったが水汲みの列を見て遠慮した。
ゴロゴロの水場を過ぎ、朱塗りの母公堂(ははこうどう)に至った。母公堂は役行者(えんのぎょうじゃ)が母の白専女(しらたらめ)にここから先は女人結界であると母を諭し、ここで母に見送られて大峯山に入ったと伝えられている。
母公堂の前に「從是女人結界」と刻まれた大きな石柱が有り、昭和四十五年(一九七〇年)まではここが女人結界の場所であった。母公堂の脇に洞川湧水群と同じ水脈と思われる清水が湧いており柄杓で喉を潤した。
母公堂からしばらく歩くと右手に稲村ヶ岳登山口の標識があった。三十数年前の事ゆえ定かでは無いが稲村ヶ岳は女性も登れるので、当時はここに監視小屋が有った様な記憶が有る。
そこから十五〜六分、洞川温泉から小一時間歩き川瀬谷に懸かる清浄大橋を渡ると橋の袂(たもと)に大きな立て看板があった。
看板を見ると「昨年(一九九七年)、新聞に女人禁制が解禁されたような記事が載ったが、あの報道は間違いで相変わらず大峯山は女人禁制である。・・・うんぬん」と書かれていた。そして外国人が訪れる事も多くなったのか看板には「NO WOMAN PERMITTED」と英語でも記されていた。
霊山には古くから女人禁制の風習が有り、最澄が開いた比叡山や、空海が開いた高野山をはじめ富士山、立山、白山、出羽三山、等々多くの山岳霊場は女人結界を定めていた。(女人高野と呼ばれる奈良の室生寺や女性の衆生済度を願って創建された京都の真如堂は霊山に詣でる事を禁じられていた女性の為に創建された。)
明治五年(一八七二年)三月、明治政府は女人禁制を野蛮の風習と見て太政官布告をもって禁を解くことを諸国の社寺に命じた。この布告によって富士山、立山、白山、比叡山、が禁を解いた。しかし、従わぬ社寺も多く高野山が禁を解いたのは明治三十九年であった。
終戦直後、大峯山の女人禁制をGHQ(占領統治下の最高司令部)が問題にし、解禁を求めたが地元住民は当時、泣く子も黙ると恐れられたGHQに対し「修道院のようなもの」と答弁し一歩も引かなかった。
大峯と並ぶ修験道の聖地、出羽三山も禁を解かず、平成五年(一九九三年)、出羽三山御開山千四百年祭を機に「女人禁制」を解き女性の入山を認めた。
大峯山の女人禁制も宗教上の理由は薄れ、平成九年(一九九七年)、山頂の大峯山寺を預かる五ヶ寺(吉野の東南院、喜蔵院、桜本坊、竹林院、洞川の龍泉寺が輪番で大峯山寺の護持院を務めている)が開祖の役行者、没後千三百年御遠忌(ごおんき)を西暦二〇〇〇年に執り行うのを機に、女性の入山を認める方向で信者や地元住民へ説明を始めた。
しかし、「女人禁制」を頑(かたく)なに守り抜いてきた洞川の地元住民や信者は女性の入山に強く反対した。女性の入山を拒む理由の第一は修験道発祥の地として千三百年の長きに亘り女人の入山を禁じ、今や日本で唯一の女人禁制の山となった事。第二は大峯山は女人禁制を守る事に価値が有り洞川も繁栄する。第三は禁を解けば大峯山は普通の山となり、洞川も山間の小さな温泉地に過ぎなくなり特長が無くなると主張して禁を解く事に強く反対した。
この様に女性の入山について協議を重ね結論に至らない内に、一九九七年一〇月三日付の毎日新聞は「大峯山が「女人禁制」を解き女性の登山を認める方向で信者に説明を始めた。役行者の一三〇〇年忌にあたる二〇〇〇年から女性解禁を目指す。「戸開け式」の五月三日を区切りに女性の入山を認め、山中の行場も開放する。」と云う内容の報道であった。
この報道を知った地元住民はこのまま放置すれば既に「女人禁制」は解かれたとの誤解を招く事態となる事を危惧し、平成十年(一九九八年)四月、大峯山寺の「戸開け式」を前に、改めて女人禁制である旨の大きな看板を設置した。看板はここ清浄大橋と五番関、稲村ヶ岳から山上ヶ岳に向うレンゲ辻の三箇所に設置された。
縦約百八十センチ、横約九十センチの大きな看板を設置したにも関わらず、平成十一年八月、奈良県教職員組合の「男女共生教育研究推進委員会」所属の女性教員十名が男性八名に付き添われ、大看板を無視して事もあろうに洞川の「女人結界門」から入山し山頂に到達した。
女性教員が所属する奈良教職員組合は同年十一月、組合の委員長が記者会見を開き「女人禁制は女性差別だがやり方に問題があった」として関係者に謝罪した。
この事件を切っ掛けに禁を解き女性信者に門戸を開く、柔軟な姿勢を見せていた寺側も態度を硬化させ、大峯山寺は委員長謝罪の翌日、記者会見を開き「信仰者の心を踏みにじる大変遺憾な行為である」と述べ、女人禁制を当面堅持する方針を正式に表明した。
大峯は千数百年、修験の山として女人禁制を堅持してきた歴史があり、禁を犯して登頂した女性教員とサポートした男性の暴挙に怒りを感じると共に、洞川の人々の主張と大峯山寺の方針に賛辞を贈りたい。
大峯山の女人禁制は女性蔑視とか穢(けが)れを云々(うんぬん)する以前の問題で、役行者が開山して以来、連綿と引き継いできた文化であり伝統である。古来の文化、伝統が失われていく中、この様な特異な山が日本に一つぐらい有っても良いではないか、大峯山は永遠に女人禁制であってほしいと思う。
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