蔵王堂〜銅の鳥居
金峯山修験本宗総本山・金峯山寺本堂蔵王堂はさすがに吉野のシンボルであり、修験道の根本道場に相応しい大建築物で見る者を圧倒する大きさであった。
蔵王堂は東大寺大仏殿に次ぐ巨大な建物で堂の高さ約三十四メートル、間口約三十六メートル重層の入母屋造り桧皮葺きの建物である。大屋根を支える六十八本の木は太さも木の種類も異なる自然木がそのまま使われているとの事。
蔵王堂は役小角が山上ヶ岳で湧出した金剛蔵王権現のお姿を自ら桜の木に刻み本尊として祀ったのが始まりと伝えられている。以来、桜の木は吉野の神木となり保護、献木されて桜の名所となった。
吉野の山が桜の花で埋まる四月十日から十二日にかけて蔵王堂を中心に吉野一山最大の行事、花供懺法会(はなくせんぼうえ)が執り行われる。(花供とは吉野の神木、桜の花を蔵王権現にお供えし、人々の罪を懺悔する法要を執り行う儀式で、当日は大名行列が練り歩く)
吉野は太平記に記されている南北朝の争乱の舞台でもある。延元元年(一三三六年)四月、博多に逃れていた足利尊氏が東上し、南朝の忠臣、楠木正成(まさしげ)が攝津湊川で迎え撃つたが敗死し、後醍醐天皇(九十六代、一二八八〜一三三九年)は叡山に逃れた。
足利尊氏は光厳上皇(こうごんじょうこう、北朝初代)を奉じて入京し、光厳上皇の命で実弟豊仁(ゆたひと)親王を神器なくして践祚(せんそ、天皇なき後、次ぎの皇族が天皇の位に就く事)の式を執り行った。こうして尊氏は新帝を擁立し、これが北朝二代の光明(こうみょう)天皇である。
尊氏は叡山を攻め、攻防百日、勝敗の帰趨が明らかとなり、尊氏は講和の密使を叡山に送った。後醍醐天皇は皇太子恒良(つねよし)親王に帝位を譲り、新田義貞は新帝を奉じて越前に向かった。
北畠親房(きたばたけちかふさ)は伊勢に向かい、皇子懐良(かねよし)親王は吉野に下った。諸将が各地に散ったのは後醍醐天皇を擁して再起をはかる方策であった。
下山した後醍醐天皇は光明天皇に神器授受の儀式を執り行い、京都の花山院に軟禁された。延元元年(一三三六年)十二月、花山院を脱出した天皇は楠木一族の案内で河内を経て賀名生(あのう、奈良県西吉野村)に一時留まり吉野に赴いた。こうして吉野に行宮(あんぐう)が置かれ、吉野は南朝の拠点となった。
吉野は後醍醐天皇にとって絶好の立地であった。北麓を東西に流れる吉野川を利して西は紀伊、東は伊勢と連絡を取るにさほどの困難は無く、西北に進めば楠木一族の本拠、河内に近く、北に下れば奈良に至る。南は重畳(ちょうじょう)とした熊野の山脈(やまなみ)が聳え平安以来の修験者(山伏)の道場でもある。
彼ら山伏は武力集団でもあり、密使としての役割も担った。(当時の密使は山伏か僧侶か商人に扮装する事が多かった)
一三四八年正月、幕府軍を率いて出陣した高師直(こうのもろなお)は河内の四条畷(しじょうなわて)において南朝の楠木正行(まさつら)と激戦を繰り広げた。
この戦いで南朝方は敗れ楠木正行はじめ楠木一族とその他の将士が敗死した。高師直は楠木一族の本拠地、河内を掃討し吉野に攻め入った。
南朝の後村上天皇(九十七代、一三二八〜一三六八年)は吉野を捨て賀名生に逃れた。この時、高師直は蔵王堂、仁王門をはじめ吉野の神社仏閣を焼き払った。南北朝の争乱は五十六年に及び、明徳三年(一三九二年)十月、両朝が講和して終結した。
現在の蔵王堂は天正十九年(一五九一年)、豊臣秀吉によって再建された。秀吉が吉野に五千人を招いて花見をしたのは文禄三年(一五九四年)二月(旧暦)である。吉野は源義経をはじめ日本史に数々の逸話を残している。
しばらく休憩の後、蔵王堂を半周する様に付けられている石段を下ると蔵王堂の裏側に仁王門が有る。通常、寺を訪れると門をくぐって本堂の正面に至るのが普通であるが蔵王堂は少し様子が違う。
本堂の蔵王堂の正面は山上ヶ岳に向って南面しているのに対し、仁王門は山下にある吉野川に向って北面している。これは吉野から山上ヶ岳を経て熊野へ逆峯する真言宗系(当山派)の修験者には仁王門が入口に当たるので北面しているが、熊野から山上ヶ岳を経て吉野へ順峯する天台宗系(本山派)の修験者には出口となっている。我々は山上ヶ岳から吉野へ順峯して来たので仁王門が出口になっている。
蔵王堂に相応しい雄大な仁王門(高さ約二十メートル)をくぐり、二百メートルほど下ると通称、銅の鳥居と呼ばれる門に至る。
この門は東大寺の大仏鋳造で残った銅から造られたとの伝説が有る。堂々と聳え立つ銅の鳥居は高さが七・五メートル有り、蔵王堂と共に吉野のシンボルでもある。
銅の鳥居の扁額には正式な名称である発心門と記されている。修験者は吉野川で禊をして「奥駆け」の修行に入る決意を固めてくぐる第一の門である。木でもなく石でもなく銅で造られているのは鉄の意志を表現しているのであろうか。
我々の峯入り行もこの門をくぐって終わった。山上の龍泉寺宿坊から銅の鳥居までおよそ三十キロ、午前七時に出発して午後二時過ぎに銅の鳥居に着く予定であったが思いのほか登り下りが有り、到着したのは三時過ぎであった。
完
平成十三年九月十七〜十八日
参考文献
吉川弘文館 歴史文化ライブラリー 「役行者と修験道の歴史」 宮家 準著
教育社歴史新書 「修験道」 宮家 準著
東京書籍 「仏教語源散策」「続仏教語源散策」 中村 元編
白水社 「日本の神々 神社と聖地」 第四巻大和 谷川 健一編
講談社 学術文庫 「日本霊異記」 上巻 中田 祝夫 全訳注
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