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日吉大社

 

 午前二時、電燈が灯され、皆が一斉に起き出した。各自の布団を丁寧にたたみ、世話役の指示で布団部屋に運んでいた。睡眠不足で頭がボーとしていたが我々も皆に倣い布団をたたんで布団部屋に運んだ。積み上げられた布団を見るとそれは見事なほど整然と積み上げられていた。
 起床して洗顔の後、握り飯一個とタクアン一切れを口に入れ、支度を整えて護摩堂前に参集した。空を見上げると星一つ見えず今にも降りだしそうな曇り空であった。
 我々は何時もの山登りと同様に持ち物を全て詰め込んだリュックを背負い参加したが、大半の方々は何も持たず懐中電灯一つとタオルを持つのみであった。
 これから叡山に登るのに大半の人々が水筒も持たず雨具も携帯しない軽装に驚きを感じた。それにしても周りを見るとリュックを背負って回峰行に参加しているのは我々だけであった。彼らから見れば我々は「行」である事を理解していない異端の徒と映ったかもしれない。
 軽い体操の後、若い僧が「大阿闍梨様がお見えになるまで不動明王の真言を唱えてお待ち下さい」と告げると、一斉に「ナーマク サーマンダー バーサラナン センダン マーカーロ シャナ ソワタヤ ウンタラター カンマン」と繰り返し繰り返し真言が唱えられた。我々は両手を合わせて頭(こうべ)を垂れ唯々(ただただ)、皆が唱える真言を聞き入るのみであった。
 闇夜に真言が響きわたる中、大阿闍梨が先達(せんだつ)として行者の装束である白一色の浄衣(じょうえ)を纏って姿を見せた。大阿闍梨は巡拝の安全を祈願して不動明王の真言を唱え、般若心経を唱えた。同行する方々も大阿闍梨に和して真言を唱え、般若心経を唱え、その声が暗闇に響きわたった。
 祈祷を終えた大阿闍梨は一人ずつ数珠で参加者の頭を軽く叩く「お加持(かじ)」を行ない、律院のお弟子さん、それにお手伝いの方々に見送られて叡山巡拝に出発した。
 大阿闍梨は六尺を超える棒を杖にして小田原提灯を提げ、二人の若い僧が供として付き従っていた。若い僧は年の頃十六〜七か供華袋(くげぶくろ、お供えする花を入れた袋)を肩から吊るし、精悍な顔立ちでいっぱしの行者の風格を漂わせていた。もう一人の供は大阿闍梨の腰に腰押し棒(先が馬蹄形になった棒)を当て後ろから押していた。
 暗闇の中、律院を出て叡山の守護神として崇められる日吉大社に向った。日吉大社の創建は古く、神代、比叡山の手前にある八王子山、古くは牛尾山と呼ばれた山頂に鎮座していた。山頂には東に向いて磐坐が有り、琵琶湖を越えて昇る太陽を崇めたのであろうか。
 すじん崇神天皇七年、この神を里にお遷しし祀ったのが東本宮となり、天智天皇が近江に遷都した翌年(六六八年)、大和三輪大社から大己貴神(おおあなむちのかみ、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子 別名、大穴牟遅神(おほなむぢのかみ)、大物主神(おおものぬしのかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)、等々、別名多し。)を勧請したのが西本宮である。
 東本宮の祭神は大山咋神(おおやまくひのかみ、素戔嗚尊の孫、大年神(おおとしのかみ)の子 別名、山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ))、古事記に拠ると「この神は、近つ淡海国(あふみのくに、近江国)の日枝山(ひえのやま、比叡山)に坐(いま)し、また葛野(かづの)の松尾(まつお、京都の松尾神社)に坐して、鳴鏑(なりかぶら、鏑矢)を用(も)つ神なり」と記されている。境内には百八社と云われる神々が祀られ神々が集う地として崇められてきた。
 二十七年も前になろうか妻と共に、鬱蒼(うっそう)とした杉の老樹が立ち並ぶ参道を歩み、日吉大社を訪れた事が思い出される。あの時、祈祷を受けたのは東本宮なのか西本宮なのか定かではないが、神殿の地下に降り、四方を石で囲まれた厳粛な神坐で祈祷を受けた記憶が今も鮮明に残っている。
 祈祷を終え日吉大社の巨大な神輿を拝観し、境内を巡ると神々を祀る小社が数知れず連なっていた事を思い出した。
 当時のことを思いながら暗闇の中、日吉大社の赤い鳥居をくぐって右に折れ、鬱蒼とした杉木立の中を進み、東本宮に参拝し、境内の摂社を巡拝して西本宮に向った。
 西本宮で参拝を済ました叡南俊照師はしばらく佇(たたず)んで千日回峰行の思い出を少しばかり語った。「冬、大雪の日、山を駆け下りやっとこの地に辿り着いたが足が凍り付いて歩けなくなった。今は水が涸れて流れていないがこの横に小さな川が流れていた。脚絆(きゃはん)を取り凍(い)てついた足を水に浸して、しばらくすると血が滲んで来た。やっと血行が戻り歩けるようになった。ここは私にとって忘れがたい思い出の場所です。」としんみりと語った。
 日吉大社は天台宗の護法神として仏教とも深い関係を持ち、「日吉山王」と称し、全国に三千八百余の末社がある。境内には百八社の神々が鎮座し、千日回峰行では山王二十一社を巡拝する。
 この日も二十一社巡拝したのか、ただ後に就き従って立ち止まっては両手を合せたに過ぎず参拝した社の数は定かではない。
 西本宮から杉檜の大樹が鬱蒼と天を覆う参道を歩き、鮮やかな朱色の独特の様式をもつ山王鳥居をくぐり、豊臣秀吉が寄進したと伝えられる日吉三橋の一つ大宮橋を渡り下を見ると自然石で築かれた不揃いの石段であった。
 懐中電灯の灯りを頼りに石段を下り、夜陰の中、砂利道を歩くと静寂の中でザクザクと足音がやけに大きく聞こえた。
 朱塗りの鳥居に至り、大阿闍梨は鳥居の傍らに立ち止まって後続の参加者を待ち、皆を集めて「是から先、約二時間弱の登りになります。体の調子の悪い方、登る自信の無い方、遠慮無く申し出て下さい。無理をして事故が有っては大変です。ここで終えられても立派な「行」です。」と申し述べ、数人の婦人と子供達が「行」を終えた。
 大阿闍梨は巡拝を続行する一行に向い「ここから先は叡山の聖域に入るので山を汚してはならない、つばき唾を吐く事も許されない、山上に至るまでトイレもない、しばしの休憩を取るのでここで済ませて下さい。」と告げられトイレ休憩となった。
 大阿闍梨がトイレに立った間に、若い僧が捧げ持つ小田原提灯を見せてもらった。大阿闍梨の持つ小田原提灯には「北嶺修験叡南俊照(ほくれいしゅげんえなみしゅんしょう)」と墨書されていた。
 この一文を書くに当り何となく北嶺の文字が気掛かりで調べてみると、南都とよばれた興福寺に対して叡山は北嶺と呼ばれた。回峰行も役行者を開祖とする大峰修験を南山修験と称し、叡山の回峰行を北嶺修験と呼ぶ事を知った。

 

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叡山千日回峰行一日体験記 目次

 


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